◎今月の話題


スローフード

ノンフィクション作家 島村 菜津

 


 スローフードという言葉を、聞いたことがあるだろうか。文字通り、簡単で、お手
軽なのもいいが、それだけでは味気ない世の中になってしまう。忙しいとばかり言っ
ていないで、食事くらいゆっくり楽しもう。というのが、その基本精神である。けれ
ども、決してただ時間さえかければ良いというわけではない。結婚式の豪華な饗宴や
夜明けまで終わらない飲み会が、まま人を幸せにしないように・・・。

ファストフード不買運動ではない

 この言葉は、そもそも、ファストフードの反対語として生まれた。だからといって、
マスコミがそうしたがるように、ファストフード不買運動とも一線を画している。な
らば、どういうことかというと、反対しているのはファストフードではなく、その背
後にある考え方、世界観である。ファストフードが、どこでも、いつでも同じ味、同
じ質を目指すのなら、その反対。

 フィレンツェには、フィレンツェの味、沖縄には沖縄の味がある。土地ごとに地方
色豊かな味わいがあり、わが家にはわが家の味がある。そんな多様な味の世界を守ろ
うという運動です。

 言い出したのは、イタリアのスローフード協会の面々。1985年、首都ローマにファ
ストフードの最大手が店を出したのをきっかけに生まれたのが、スローフードという
言葉だ。協会は1986年、ヴェネチアで大会を開き、1989年には、パリの『ル・モンド』
紙にスローフード宣言を発表。

 「みんながスピードに束縛され、そして我々の慣習を狂わせ、家庭のプライバシー
にまで侵入し、ファストフードを食することを強いる、ファストライフという共通の
ウイルスに感染しています。今こそホモサピエンスは、この滅亡の危機へ向けて突き
進もうとするスピードから自らを解放しなければなりません。」とうたった。

 こうして発足したスローフード協会は、後に非営利団体、NPOとなり、会長カルロ・
ペトリーニの下にそれぞれ得意分野をもつ副会長が6人。目下、国内に約4万人、なん
と世界には45カ国に約7万人強の会員を誇る運動にまで広がった。こうした活動が急
速に広がった要因としては、おそらくEU統合によってヨーロッパから国境が消え、食
の均質化に拍車がかかったことへの危機感があるだろう。とりわけ、観光大国イタリ
アにとって、地方色豊かな食材や郷土料理こそは大きな財産だったのである。

小生産者を守り、消費者を育てる

 スローフード運動の活動の指針は、大ざっぱに分けて3つ。その筆頭が、郷土料理
や質の良い生産者を守ること。質の良いものをせっせと作りながら、宣伝力もなく、
大量流通、大量生産のシステムに乗り切れずにいる小生産者を、出版活動や各地の会
員による本当においしいツアーなどを通じて支えている。同時に郷土料理、伝統食材
の価値を次世代に伝えていく。

 2つ目は、子供たちを含めた消費者の味の教育。五感こそは、情操教育の場というこ
とで、年に一度、「味の週間」というイベントを開き小学校や幼稚園児、たまには学
校の教師たちを対象にゲーム感覚で味の教育を行っている。

 最後は、このままほっておけばなくなりそうな味を守るという運動。協会では、長
年のリサーチを通じて、イタリア各地で130数種の農水産物をリストアップし、マスコ
ミで盛んに取り上げたり、日本における棚田オーナー制度のような援助策を取り始め
た。2年に1度の食の祭典、『サローネ・デル・グスト』の一部には、各地からの稀少
な食材を守る試みが一般向けにも紹介される。

 ちなみに、日本では、まだまだこれからである。東京に暮す私は、ニッポン東京ス
ローフード協会の会員だが、今年になって古株の名古屋、山形の会に加え、埼玉、宮
城、熊本など各地で創立の動きがあり、ようやく本当の活動ができそうな予感がして
いる。そこには、岩手から短角牛で知られる岩泉町の町長もかけつけたのだった。

質の良い生産者の時代

 スローフード協会は、決してノスタルジックな運動ではなく、例えば、本来、日本
の伝統的食文化にさおしていなかったからといって、肉食を否定するような風潮は個
人的にも遺憾に思っている。特に、質のよい食肉作りを心がけてきた農家たちまでが、
十把ひとからげの報道と消費者の無知とのせいで、昨今のBSE問題や大手のずさんな牛
乳作りの煽りを喰らって四苦八苦しているのを知るにつけ、その思いを深めている。
ただし、環境問題が世界的にも緊迫している今だからこそ、環境保全型の食肉作りの
システムをしっかりと形作り、透明性を求める消費者にアピールしていく必要がある
だろう。まだヨーロッパなどに比べれば歴史の浅い畜産かもしれないが、だからこそ、
その世界は、新しい可能性を秘めているはずだ。そして、今後の消費者のニーズもま
た、多様化していくだろう。

 例えば、熊本で昨今、立ち上がったスローフード協会の会員には、赤牛を育ててい
るメンバーがいたが、その人が言うには、健康的な放牧を重視した育て方であれば、
脂肪の色がやや黄色みを帯びる。ところが、日本の流通側は脂肪の色の白さを重視す
ることを嘆いていた。霜降りという日本独特の文化はそれはそれで守っていかねばな
らないのかもしれないが、米におけるコシヒカリのように猫もしゃくしもそればかり
になるのは、おかしな現象である。

 スローフードは、まず足元の食を見直して見ることで、できたてほやほやの各地の
スローフード協会の面々と協力し、来年あたり、消費者の味の教育という面からおい
しい肉、安全な肉についてのユニークなイベントができないものかなどと話し合って
いる昨今である。


しまむら なつ

ノンフィクション作家。1963年、福岡県生まれ。
東京芸術大学卒。専攻は、イタリア美術史。
著作に『フィレンツェ連続殺人』、『スローフードな人生!』、『エクソシストとの対話』、
『イタリアの魔力』、など。

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