名古屋市立大学 薬学研究科 教授 奥山 治美
半世紀前に、「動物性脂肪は血中コレステロール値を上げるので悪玉、リノー ル酸の多い植物油はそれを下げるので善玉」、という説が確定したかに見えた。 コレステロール値が高くなると、動脈硬化が進み成人病になると考えられた。こ の考えは、今でも医療の現場に残っており、動物性脂肪の多い肉類、コレステロ ールの多い卵などが重要なタンパク源であるにもかかわらず、制限されることと なった。ところが、このコレステロール仮説はほぼ完全に崩壊してしまった。動 脈硬化・心臓病や多くの癌、アレルギー過敏症などに対して、主要な危険因子は リノール酸の摂りすぎであり、動物性脂肪やコレステロールではなかった。魚に 多い脂肪酸(*EPAや**DHA)は、リノール酸からできるホルモン様物質の過剰 産生を抑えることによって効果を発揮していた。 一方、血中コレステロール値が高いと心臓病になりやすい、というのは医療の 常識であったが、この常識も崩れた。成人病検診を受けた一般集団を対象とする と、血中コレステロール値が高い群ほど、@癌死亡率が低く、A総死亡率が低か った(長生きであった)。どうやらこれまでの常識は、大病院中心の先天性高脂 血症を多く含む集団についての結果であり、一般集団には当てはまらないようで ある(参照:心疾患予防―コレステロール仮説から脂肪酸のn-6/n-3バランス へ、学会センター関西、2002年)。これらの結果は、これまでの畜産物の評価 を決定的にくつがえすものである。
油脂の脂肪酸は体内での代謝に基づき、三系列に大別できる。@飽和脂肪酸と 一価不飽和脂肪酸(オレイン酸など)の系列(体内でも糖質や蛋白質から作られ、 動物性脂肪や菜種油、オリーブ油などの主成分)、Aリノール酸、γ-リノレン 酸、アラキドン酸などn-6系列(体内で作られず、成長、生殖生理などの維持に 必須)、およびBα-リノレン酸、EPA、DHAなどn-3系列(体内で作られず、 脳・網膜などの機能維持に必須)である。動物にとってn-6系列とn-3系列は食 物由来であり、食物のn-6/n-3バランスが変わると体のすべての組織(畜産物) で、この比が変わる。一般にリノール酸は種子(特に家畜飼料となるコーン、大 豆)に多く、α-リノレン酸は葉、根に比較的多い。そこで牧草と濃厚飼料で育 てた家畜のn-6/n-3比には大きな差が生じる。この食物連鎖は人でも同じであ り、上述の病気の予防のためには逆に、「リノール酸摂取を減らし、α-リノレ ン酸系を増やす」ことが必要であることがわかった。すなわち動物性脂肪もコレ ステロールも、これらの病気に対して主要な危険因子ではなかった。日本脂質栄 養学会は、「リノール酸摂取を減らす方向に転換する」という提言を、世界に先 駆けて採択した(2002年)。
動物性脂肪やコレステロールは、従来、言われていたほど危険なものではなく、 コレステロールはむしろ癌や脳卒中を予防する善玉とみなすことができる。そこ で畜産物の油脂の中で問題となるのは、リノール酸である。ところが、牛や羊で は反すう胃の細菌がリノール酸を水素添加してつぶしてしまうので、牛肉、バタ ー、羊肉などはリノール酸含量が極めて少なく、お勧め食品である。ただし、牛 の肝臓、腎臓にはn-6が多い。 一方、反すう胃を持たない豚や鶏では餌のn-6/n-3比の影響を受けやすい。 すでにわが国でも10年も前に餌の選択によりn-6/n-3比を低くした畜産物の試 作に成功しているが、需給が伸び悩んでいる。昨年になってこの比を従来の10 以上から1まで下げた鶏卵が市販され、また、医療分野でもこの比を3まで下げ た流動食が伸びており、この比を下げる油脂栄養の方向は着実に進んでいる。
日本人は先進国の中では最も多く魚介類を摂取している国であり、心臓病は欧 米の4分の1以下となっている。魚の多食は多くの病気を予防する利点があるが、 一方ではダイオキシンの問題もある。健康増進のためにも食事を楽しむためにも、 安全性の高い肉や魚の供給が求められている。安全性の問題は農薬や環境汚染の 問題を避けて通れないが、直面している問題はリノール酸(n-6)であり、その 含量の少ない牛、羊製品はそれだけで安全性が高い。また、n-6/n-3比を下げた 豚、鶏製品は健康増進のためにお勧めである。国の諮問委員会は油脂栄養の理解 が15年ほど遅れており、今だにコレステロールを下げる方向を支持(指示)し ているが、畜産業界もn-6/n-3比の低い畜産物のメリットを積極的に広報すべ き時が来ている。
おくやま はるみ 略 歴: 昭和43年 東京大学大学院薬学系研究科修了(薬学博士)、 同年 東京大学薬学部 助手 同 47年 名古屋市立大学薬学部 助教授 同 54年 名古屋市立大学薬学部 教授(生物薬品化学講座) 平成14年 名古屋市立大学大学院薬学研究科予防薬食学分野(改組) 現在に至る 併 任: 平成3年〜9年 日本脂質栄養学会 会長 平成13年 大連大学(中国)客員教授 同年 大連医科大学(中国)客員教授 受 賞: 日本薬学会奨励賞 日本脂質栄養学会功労賞 学会評議員: 日本薬学会、日本生化学会、日本脂質栄養学会 研 究 分 野: 食べ物の選択によって脳・網膜機能、行動パターンが変わる機構の研究 リノール酸摂りすぎによるアレルギー過敏症、癌、心臓脳血管病の増加 −基礎的、臨床的研究− 脂質栄養の新方向の確立