◎今月の話題


栄養学は時代とともに変わる

浜松医科大学 名誉教授 高田 明和








うつのまん延と栄養

 最近うつ病に悩む人が急増している。東京では、JRの各線で人身事故のた
めの運転休止が常におきている。実際自殺者の数は、5年連続3万人を超えてい
る。これは、人口の比率ではアメリカなど欧米先進国の2倍である。

 現在うつ病の治療にもっとも用いられる薬は、脳内のセロトニンという物質
を増やす作用を持つものである。うつ病の患者では、脳内のセロトニンの量が
少なくなっているか、働きが悪くなっていることが知られている。

 セロトニンは、神経伝達物質の1つで神経の末端から出され、次の神経の膜
にある受容体と結合し、神経を刺激する。セロトニンが少ないと、この刺激が
うまく行かないのである。

 セロトニンは、トリプトファンというアミノ酸から作られる。トリプトファ
ンは必須アミノ酸の1つで、私たちの体で作ることはできない。トリプトファ
ンは、動物性タンパクに多く含まれる。特に食肉に含まれるのである。

 実際トリプトファン摂取を止めると血中のトリプトファン濃度は急速に低下
し、動物では4日後には血中のトリプトファン濃度はほとんどゼロに近くなる。
また、この際に脳内のトリプトファンやセロトニンの量を調べると、これも非
常に少なくなっているのである。

 セロトニン神経は、感情をつかさどる辺縁系という部分に多く見られ、スト
レスなどでこの部分からセロトニンは分泌される。トリプトファン摂取を制限
した動物では、この際にセロトニンが分泌しなくなっている。

 またヒトではトリプトファン欠乏食を与えると数日で気分がうつ状態になる
ことが多く、やる気がしないとか、未来が心配だとか、気分がすぐれないなど
という訴えを起こす。

 このようなことから、うつ病の1つの原因は、脳が栄養失調になっていると
いう考えも出されている。つまり肉食の制限によりトリプトファンの摂取が少
ないと、その結果セロトニンが少なくなり、うつになるというのである。


性格と社会的地位

 前項で脳の辺縁系という部分は、感情をつかさどると述べた。辺縁系でも側
頭葉の奥にある扁桃という部分は感情の中枢とされる。この部分を電気的に刺
激すると動物は急に怒りをあらわにする。牙をむき出し、うなり、背をまるめ、
毛を逆立てる。一方、扁桃を除去すると、動物は異常に柔和になる。本来他の
動物に対し警戒心が強く、すぐに相手を倒し、殺害しようとする動物でも、扁
桃を除去すると、ヒトが近づいても何も怒りを現さず、背中をなでても平気で
横たわるようになる。

 サルの集団などではボスザルは、支配下のサルの持ち物などを自由に奪い、
食べ物も異性も欲しいものを自分のものにすることができる。このようなサル
は体も大きく、知力も高いのが普通である。

 このようなボスザルの扁桃をとると、ボスザルは柔和になるとともに、社会
的地位を失い、その集団で最下級に陥ることが知られている。つまり他のサル
の信頼、畏敬を失い、地位も失うのである。このようなサルは手術前と後で体
格も知能も変化していないことに注意してもらいたい。つまり怒ることを忘れ
て、温和になることは他の動物を支配できなくなるのである。


闘争についての考え方

 日本は長い間平和で、経済も順調であった。また日本をとりまく環境にも困
難はなく、日米安保により国の安全が保証されているように考えられた。この
ことは物事を平和裡に解決できるはずだという考え方を定着させた。例えば、
昨年モスクワでチェチェンの武装勢力が劇場を占拠した。

 彼らはチェチェンの仲間の逮捕者を開放することを要求した。しかし、プー
チン大統領はこの要求をはね付け、軍の特殊部隊を突入させ、何百人もの市民
を犠牲にして問題を解決した。

 この時に、日本国民の反応は「なぜもっと話し合わないのか」という意見が
大半であった。実際これがロシアで起きたことだったから、まだこの決断に対
する非難は弱かったが、これが日本で起きた場合には大変なことになっただろ
う。いや政府は突入させなかったのではないだろうか。当時韓国の評論家は
「もし韓国でこのようなことが起きたなら、やはり軍を突入させただろう」と
言っていた。

 ひるがえって、イラク戦争のことを考えて見よう。この戦争にはフランス、
ロシア、ドイツなどが反対した。それは新しい安保理の決議がないままに戦争
してはいけないということであった。注目すべきはこれらの国も最後には力の
行使はやむを得ないという意見では一致していたのである。


肉食と菜食

 日本では最近健康についての関心が著しく高い。特に生活習慣病に関しても
関心も知識も豊富である。生活習慣病の予防には肉食を避け、なるべく菜食を
主体にし、カロリー摂取も減らすべきだというのが大方の理解である。

 しかし、世界では肉食の需要は減っていない。それは肉食によるカロリーの
補給という意味だけでなく、動物性タンパク質の中に豊富にあるトリプトファ
ンやチロシン、フェニルアラニンなどが精神を高揚させ、気力を充実させるた
めに必須であることを人々は長い歴史から知っているのである。

 世界が完全に平和で闘争がなければ、生活習慣病を考える食事がもっともよ
いだろう。しかし闘争の心を持たないことは、社会における尊敬も地位も失う
ことを意味するなら、ある場合には脳をたくましくする食事を優先しなくては
ならないだろう。

たかだ あきかず

昭和36年慶応大学医学部卒、41年同大学院修了、医学博士。47年ニューヨーク
州立大学助教授、50年浜松医科大学第二生理学教授、平成13年浜松医科大学名
誉教授。
日本生理学会、日本血液学会、日本臨床血液学会、日本血栓止血学会評議員。
「脳・神経研究のための分子生物学技術講座」(光文堂)、「脳の動態をみる
−記憶とその障害の分子機構」(医学書院)等著書多数。


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