◎調査・報告


和牛放牧による畜産の復権

北里大学 獣医畜産学部附属フィールドサイエンスセンター長
教授 萬田 富治


はじめに

 平成13年の秋、BSE(牛海綿状脳症)発生という未曾有の畜産危機に見舞わ
れたが、国を挙げた取り組みにより、大方の予想を上回る勢いで、牛肉消費が
回復しつつある。国民・消費者を震撼させた事件は、「BSEの発生は国(行政)
の責任であり、生産者は被害者」ということで総括された。極めて単純明快な
総括であるが、この根底には、生産者にとって多くの教訓が示されていること
を読み取っておく必要がある。7月23日付けの朝日新聞に農林水産政策研究所
の遺伝子組み換え食品に関する消費者アンケート結果が掲載されている。「組
み換え作物について生産者は健康と環境に対する潜在的危険性を配慮している
か」との問には、約65%が「全く思わない」、「あまり思わない」と否定的な
回答であった。現在、国内で組み換え作物の商業栽培は行われていないが、か
なりの消費者が「食品の安全性」について、生産者との意識の乖離を感じてい
るようである。つまり、農家は商品の安全性のことよりも、売れて儲かれば、
消費者が支持しない技術や資材を経営に取り入れるものとの思いこみがある。
安全な農産物の生産に取り組んでいる生産者にしてみれば、消費者の思い違い
も甚だしいと言わざるを得ない。制度的にはトレーサビリティ法の遵守により、
消費者はより「食品の安全性」について情報を得ることが出来るようになった
ので、このような消費者の誤解も徐々に解けていくものと思われる。


 自国の食料供給について8割近くの国民が不安を持っており、食料自給率向
上を支持しているとか、農業の多面的機能を理解する国民が過半数に達したと
か、消費者の農業に対する理解の程度や期待感は高まっている。しかし、一方
では、作物や家畜の育て方について、一段と関心が払われるようになった。最
近における「地産地消」、「スローフード運動」などの高まりも、このような
意識を反映しているのではないだろうか。WTO農業交渉では、農産物輸出国や
ケアンズグループの全面自由化攻勢に日本は苦戦を強いられているが、日本が
主張する農業の多面的機能は水田農業のことであり、日本畜産は環境汚染の克
服が当面の重要課題で、多面的機能を主張するような状況ではない。早急に、
国民・消費者から支持され、諸外国に対して存在感を発信できる環境保全型・
資源循環型畜産を再構築する必要がある。その先進的取り組みは、高齢化の進
行・耕作放棄地が増大し、地域社会の存続自体が危ぶまれる中山間地域に見ら
れる。それは和牛放牧の復権である。和牛放牧は、農家の所得を確保し、国土
を荒廃から守る有効な手段として復活しつつある。放牧復活には簡便な電気牧
柵など、新しい放牧施設の開発が貢献しているが、ロールベールラップサイロ
システムなど、省力的粗飼料生産技術の普及も寄与している。ラップサイロシ
ステムにより、余剰草収穫・越冬飼料確保など、放牧システムに必要な粗飼料
確保が容易になった。このような、新技術に支えられて放牧技術が普及するよ
うになった。また、放牧技術の推進はアニマルウェルフェアの遵守という視点
からも大切になっている。収益性には直結せず、場合によっては飼養頭数の制
限から収益性の低下の恐れもあり得るが、EUではアニマルウェルフェアの遵守
が有機畜産の基本に据えられており、環境に優しい放牧が推奨されている。わ
が国においてもアニマルウェルフェアの遵守は他国のことと、看過するわけに
はいかなくなるであろう。この点からも放牧の推進が必要とされる。


 個別農家から始まった放牧の復権は、さらに、個別農家から放牧農家・関係
機関・団体による地域ネットワークへと輪を広げ、技術の普及拡大の推進、消
費者との連携など、地域ぐるみの取り組みへと大きく進展する事例も見られる
ようになった。放牧農家の規模を問わず、養分とエネルギーの経営内あるいは
地域内フローをさらに向上させ、持続的生産を確保する取り組みである。この
ように、和牛放牧を軸とした複合農業システムの構築が、条件不利地域が集中
する中山間地域の集落活性化、環境保全効果を発揮し、食糧自給という国民的
期待に応えるとともに、21世紀における畜産復権の一翼を担うことになる。和
牛放牧が円滑に推進できる諸制度・支援策を大いに活用したい。


和牛放牧の効果

 わが国の肉牛は、およそ6割の肉専用種と4割の乳用種から構成され、肉専用
種の大部分は黒毛和種という和牛である。和牛とは、日本在来のウシを基本に、
明治から昭和初期にかけて外国の肉用種と交配し、選抜固定によって改良され
たウシのことを指している。食肉の表示に関する公正競争規約では、「黒毛和
種」「褐毛和種」「日本短角種」「無角和種」の4種についてのみ、和牛の表
示が認められている。従って、和牛という表示は品種に関して認められたもの
であり、原産地を示す表示ではない。例えば、「和牛肩ロース(アメリカ産)」
などと表示された精肉が販売されることもある(農林水産消費技術センター、
消費者相談事例集より引用)。和牛の主要品種は黒毛和種であるが、黒毛和種
については輸入肉との競合が少ないことから、全国的に飼養範囲が広がってお
り、日本短角種など地方特定品種は減少傾向にある。黒毛和種は今後とも、わ
が国の主要な肉専用種として飼育されることは間違いない。しかし、収益性の
高い経営として優れているといわれる繁殖・肥育一貫経営の普及拡大は足踏み
状態である。従って肉用牛の飼養形態は、繁殖経営と肥育経営に分業化し、肥
育素牛は市場取引される方式となっている。また、肥育経営は専業化が進んで
いるが、繁殖経営は、零細な小規模農家が多い。小規模繁殖経営では、高齢化
が進み、和牛飼養を中止する経営が増えており、肥育農家の安定した素牛確保
面で問題が生じている。また、小規模繁殖経営は優良和牛遺伝資源の維持・供
給源といった点においても、その役割が期待されるが、繁殖農家数の減少は、
優良和牛遺伝資源の保持からみても問題となる。一方、サシ重視の和牛肥育技
術は穀物多給という、人の食料との競合や資源利用の面から問題を孕んでいる。
「牛は本来、草食動物であるから、その能力を活かし、草主体による飼養に転
換すべき」といった論調を、特にBSE発生以降に目にすることが多いが、十分
なサシ(脂肪交雑)を草主体飼養で、形成することは不可能である。和牛のサ
シは、つまり高級肉という和牛の特性を発揮できるのは、穀物飼料の多給によ
って達成できる。従って、牛肉生産の自給率向上を達成する戦略は、繁殖経営
(子取り経営)から取り組むことになる。繁殖経営では1年1産という繁殖技術
の優劣が収益性を左右し、それは農家の技術水準で異なる。成雌牛の栄養要求
は、野草のような粗剛な飼料でも十分量を採食させることで賄うことが可能で
あり、比較的、飼養管理は容易で、高齢者でも飼育できる。最近、見直されて
いるノシバ短草型草地への和牛放牧は、この成雌牛の栄養要求特性を活用した
放牧技術である。放牧頭数が適正であれば、ノシバ草地は無肥料で草勢を長期
間にわたって維持出来ることが実証されており、極めて、低コストで省力的で
ある。環境保全効果も高く、景観もよく維持され、子牛への栄養補給を適宜行
うことで、子付き放牧も可能である。強調すべき点は、荒廃農林地の草資源の
有効利用が可能なことである。温暖地では野草放牧と冬季用草地との組み合わ
せにより、周年放牧も行われている。このように、繁殖経営では、放牧を取り
入れることにより自給飼料主体の飼養が可能な段階に達している。しかし、肥
育素牛の放牧育成技術については、市場評価の問題もあり、放牧育成技術の普
及は今後の課題である。黒毛和種の草の利用性は、日本短角種やアンガス牛に
比べると劣っているが、粗飼料主体による黒毛和種の育成技術についてはすで
に多くの試験成績が報告されており、マニュアルなども作成されている。粗飼
料確保が十分な経営では粗飼料主体育成、その後の肥育仕上げまで、粗飼料を
十分に活用して高級肉を生産することも出来る。中山間地域の遊休農林地や平
地の遊休水田を活用した繁殖和牛放牧が、牛肉自給率向上のための第1 段階と
なる。第2段階、すなわち、肥育技術については穀物多給が前提になるが、代
替飼料として高エネルギーの各種食品副産物の活用を視野に入れた取り組みが
大切である。牛肉自給率向上の当面の重点戦略は繁殖和牛の舌刈りによる国土
保全を全面に出した地域振興がキーワードとなる。


風土に根差した放牧適合肉用牛の開発

 サシ重視の牛肉の市場評価の下では、黒毛和種の穀物肥育が圧倒的に有利で
あり、市場評価の高い黒毛和種は生産者にとっても当然有利となる。しかし、
牛肉のサシ志向は穀物飼料の需要量を増やし、穀物飼料の増産のため、大量の
化学肥料や農薬使用による耕種農業の集約化と森林などの耕地化が推し進めら
れ、このことが地球規模の環境破壊や生物多様性等に大きな影響を及ぼしてい
る。この問題は農産物が国際市場で広域的に取り引きされているため、消費者
にとって、身近な問題とはならなかった。21世紀の半ばには環境、人口、食糧、
化石エネルギーのいずれも極めて厳しい状況が見込まれており、畜産業の責務
として、良質動物たんぱく質の安定供給のため、化石エネルギーの消費節減、
資源循環構築による環境保全型畜産への転換への一層の努力が求められている。
わが国の風土は水田農業や植物生産には適しているので、これらの地域資源を
利用できる乳牛・肉牛、中小家畜・家きんなどの草食家畜を中心とした国土資
源利用型畜産への転換が求められる。その1つの試みとして、以下に、北里大
学獣医畜産学部附属フィールドサイエンスセンター八雲牧場における100 %自
給飼料による牛肉生産と適合品種の選定の取り組みについて紹介する。なお、
この生産システムは農業技術研究機構プロジェクト「ブランド・ニッポン」の
研究に参画し、平成15年度より研究を開始している。

北里大学八雲牧場における取り組み
 八雲牧場は、1994年から輸入飼料穀物の使用を中止し、春から秋まで放牧、
冬期はサイレージのみの、100%自給飼料給与による牛肉生産方式に転換して、
すでに8年を経過した。しかし、100%自給飼料による牛肉は、サシが入らず、
赤肉主体のため、既存の枝肉評価基準からは大きくはずれ、独自の販売戦略を
構築する必要に迫られた。100%自給飼料牛肉(北里八雲牛)の出荷が始まっ
た1996年に、この趣旨に賛同する首都圏の消費者組織が「ナチュラルビーフ」
の商品名で組合員に供給するルートを開き、本格的に消費者が求める赤肉生産、
そのための肉用牛の品種選定を開始した。

品種選定および交雑種利用
 「自給飼料100%」の牛肉生産は、牧草などの飼料の品質特性から見て、み
ずから赤肉生産を目指すことになる。現在、八雲牧場では約300頭の肉牛を飼
養しているが、繁殖用純粋種は日本短角種、アバディーンアンガス種を主体に
ヘレフォード種、シャロレー種のほか、黒毛和種も飼養している。「北里八雲
牛」として出荷される牛は交雑種が主体であるが、その品種の組み合わせはさ
まざまである。今後も雑種強勢を活用し、交雑種利用を勧めることにしている
が、八雲牧場に最も適した肉牛品種の選定・交配計画が必要となった。これま
での多品種の肉牛の飼育経験から、八雲牧場に適した牛は雑種利用を前提にす
れば、以下の要件を満たす交配計画を予定している。


@粗飼料利用性に優れ、放牧適性の高い品種としては、これまでの八雲牧場に
 おける実績から日本短角種、外国種ではアバディーンアンガス種やヘレフォ
 ード種が優れている。


A放牧適性からみれば、泌乳能力に優れ、子育ての上手な品種が適しており、
 これには改良の過程で乳用ショートホーン種の血が入った日本短角種が優れ
 ている。


B雑種強勢は母の哺育能力、子牛の発育、育成率などに強く現れるので、一代
 雑種雌を母畜として実用畜(コマーシャル)生産に供することが有利となる。
 交雑すれば必ず雑種強勢が発現する品種の組み合わせが求められる。具体的
 には純粋種の日本短角種雌と、皮下脂肪厚が薄く、赤肉量の多い外国種(サ
 ラー種)との一代雑種雌を母畜として利用することにしている。


C雑種強勢は一代雑種に現れるので、2代目雌は肥育して出荷されるが、未経
 産雌牛を生産資源として有効利用するために、肥育しながら1産させる1産取
 り肥育法を取り入れる。穀物給与中心の1産取り肥育は、妊娠末期に過剰な
 脂肪がついて難産になり、失敗する例が多いが、自給飼料100%の牛肉生産
 の場合は過肥の問題はないので、難産問題は回避出来ると考えている。また、
 地元レストランや地元精肉店へのフレッシュミートでの通年供給には、1産
 取り肥育牛が適当ではないかと考えている。このように、自給飼料100%の
 牛肉生産は、これまで検討されてきた肥育技術のメリットを活用できること
 になる。

牛肉の機能性・安全性の評価も重視
 飼料自給率向上の重点施策として放牧の拡大普及が推進されており、これら
の施策を支援するために、放牧など飼料自給型畜産が家畜の健康増進や家畜福
祉にとって有効であり、乳肉を摂取した場合に、ヒトの健康にとっても有効で
あることの科学的裏付けが求められている。乳・肉などに含まれ、ヒトの健康
に良い影響をもたらす機能性成分については、飼料の種類と機能性成分との関
係を解明する研究が取り組まれている。また、牛のO-157(腸管出血性大腸菌)
等も飼料給与と関係のあることがわかってきており、粗飼料多給により、牛の
消化管内O-157大腸菌数が激減することも明らかにされている。この様な成果
は畜産物に対する消費者の安心・信頼感を高めるものであり、さらに詳細な研
究が期待されている。乳肉に含まれる共役リノール酸、ビタミンE、ペプチド、
アミノ酸などの機能性成分については、抗ガン活性が認められて以来、抗アレ
ルギー、抗動脈硬化作用、体脂肪低減作用、増体促進作用、抗糖尿病および免
疫機能などに関与していることが、実験動物や培養細胞レベルで報告されてお
り、これらの機能性物質に関する関心が高まっている。すでに、「自給飼料 1
00%」による牛肉は共役リノール酸濃度が、慣行肥育牛よりも多く含まれてい
ることを確認しており、ペプチドなど新しい機能性活性物質が見いだされる可
能性がある。今後、機能性物質と飼育条件の関係を明らかにすることにより、
機能性物質濃度を高める技術の確立を図りたい。さらにリン、カリウム、ナト
リウムや鉄、亜鉛、マグネシウムも慣行肥育牛よりも2倍程度、多く含まれて
いることを見い出している。また、食品の安全面からは重金属汚染が問題とな
るので、牧場へ持ち込まれるすべての資材および生産した牛肉について、重金
属のモニタリングを開始し、カドミウム、水銀、ヒ素、鉛は未検出である。な
お、放牧家畜の健康を保持することは、治療薬を削減することになり、食肉と
しての安全性もより確保される。放牧が家畜の健康増進に有効であるかについ
ては、免疫成熟能の測定手法により評価することにしている。

感染症防止・抗病性強化
 感染症の侵入を阻止するため、白血病、ヨーネ病については年1回の全頭検
査を実施し、疑似畜についての処分など、防疫体制の徹底により清浄化されて
いる。また、生体は導入しないことを基本としており、感染症の侵入には細心
の注意が払われている。家畜の抗病性の強化については、家畜管理学的手法に
よる措置のほか、育種学的手法による取り組みが必要と考えている。


自給飼料適合肉用牛の性能を発揮させるため

 多くの国民が自然との共生や暮らしの豊かさ、食べ物の安全性等に関心を寄
せている。この要請に応え、わが国における食の安全性を確保し、環境と共生
した畜産の構築のためには自給飼料適合肉用牛の開発が必要である。そのため
には、遺伝子←→細胞←→個体←→群←→集団←→地域への普及定着といった
従来型の畜産技術の研究方法から、ヒトの健康(生命)←→環境←→資源の相
互関連の解明を基本とした循環型畜産研究へ大きく転換することが求められる。
具体的には以下の課題と関連させながら自給飼料適合肉用牛の性能を発揮させ
る技術開発を考えている。


 @地域内資源循環系の確立
  (完熟たい肥の利用技術、地力増進のための作付け体系技術)
 A薬物投与を極力抑えるための家畜衛生管理技術
 B家畜の抗病性を高める飼養管理技術
 C牛肉の安全性・機能性の評価
 D牛肉の貯蔵・加工・調理法の開発
 E多様な販売ルートの構築


 以上の個別技術を生産システムの中で、総合化を図りながら推進することに
している。


おわりに

 日本の食文化に定着した優良和牛(黒毛和種)による環境保全型放牧の推進。

 自給飼料適合牛の開発による国土資源を利用した新たなる肉牛生産への挑戦。

 それぞれの風土を活かした安全・安心な牛肉生産の取り組み。

 こういった取り組みを広く、国民・消費者に開示し、わが国畜産の復権に大
きく貢献することを期待する。

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