1.高めたい女性の地位
戦後、日本民主化の一環に占領軍が婦人解放政策をとり、初めて法制上、男女平等理念が登場した。しかし今日、社会全般を眺めると、男女平等は必ずしも十分に実現しているとは思えない。特に農業・農村においては伝統的にその傾向が根強い。
私の恩師、上坂章次先生が1974年に、「農家の主婦と和牛とのつながり」という冊子を書かれた折、その序に「…全国どこでも和牛の飼養の実際は、農家の主婦がなさっている場合が多いのです。現在、和牛を飼っている農家は2、3頭飼いが圧倒的に多いから、和牛の大部分は主婦の飼育に依存しているといっても過言ではありません…」と記されていた。30年が経って、女性がますます農業・農村の実質的な担い手になっているにもかかわらず、旧来の慣習という根雪に閉ざされたかのように、その地位は低く、動くに動けない状況にあることが多い。
それでも近年、全国各地の元気の良い経営を見ると、はつらつとした女性が経営に参画しているケースが増えている。
今、食料・農業・農村基本計画の中には農村女性の地位向上が政策目標の一つに挙げられているので、この動きを少しでも応援したいと考えた。そこで、結婚を機に農家に入った若妻がいかに経営上のパートナーに成長したかについて、三重県松阪市「山下鶏園」の山下恵美子さんと結婚後、新規就農し夫と2人で経営を発展させた北海道湧別町「プラントフィールド植田牧場」の植田喜代子さんに会って、農村女性の地位向上の現状と問題点を聞き取り調査した。
2.山下鶏園(三重県)
若さで乗り切ったものの
山下鶏園は採卵鶏24,000羽、大すう4,200羽、幼すう4,200羽の経営である。山下恵美子さんが21歳で地元の養鶏家と結婚すると聞いて、周りは「休みが無いお家やから大変ね」と言ったが、若く楽天的な当人は気にしなかった。新しい家庭は、夫の両親、弟との同居で、サラリーマンの実家とは大違いであった。
仕舞い湯は若妻が使うもので、うたた寝から目覚めた父が深夜に湯を使うのを待つのは当たり前、家業を支えるため働いても給料はおろか小遣いも出ない。生活費として月10万円を母から渡され、一家5人の生活と、仕事に来る人々の食費も賄わなければならず、そのやり繰りは大変であった。
夫は、満州一帯で軍納野菜生産を手広くしていた父が、戦後大阪府堺に移り商売をしているときに生まれ、18歳までそこで育った。父は農業好きで、1968年、三重県松阪に3haの土地を買い、近代的養鶏に取り組むことになり、夫もこの仕事に就いた。そして、やがて、地元の女性との結婚を望んだ。
ところがその頃、鶏園で外国鶏由来のニューカッスル病が発生し、それにオイルショックが重なり、経営が破綻し、土地を手放す羽目となり山下家は火の車となった。そこで夫が経営を肩代わりし、1haを買い戻し、借金を背負ったまま1978年に結婚した。その返済に家を挙げて夜遅くまで鶏舎を建設したりするので、彼女もセメントをこね、溶接や断熱材加工など、慣れぬ仕事を手伝った。やがて生まれた小さな子供を放っておいて仕事をしなければならぬときには、産まなければ良かったとさえ思ったという。
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自宅前に立つ山下恵美子さんと筆者
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幸い父母は、「年齢差からいうと、孫ほど若い娘がうちの嫁になった」と可愛がって下さったが、習慣の違いに慣れるには長い年月が必要であった。彼女は、地域では山下家の嫁とみなされるので、いつも世間体を気にし、良く思われようと背伸びしていた。何事も控え目にし、粗相のないよう心掛けた。仕事場で夫と話しただけで、ベタベタしているように思われたし、夫が妻をかばうと、「親より嫁の肩を持つ」と言われる地域であった。そのような日々、7歳上の夫は若妻が農家の生活に早くなじめるようにと、父母や地域の人が言った言葉の意味をやさしく解説してくれたが、戸惑い続きで、風呂場やトイレで泣いたという。しかし、それも過去のことで、「今ならもっとうまくやっていた筈だ」と自信をのぞかせる。今では併設のGPセンター内での仕事、パートさんへの指示と気配りなど、一日を取り仕切り、翌日の段取りを決めるとき、鶏園社長の夫の分まで差配することがある。「奥さんは会長みたいだ」と笑う夫に、「社長より、会長の私は位が上よ」と恵美子さんが笑顔で切り返すのが微笑ましい。
しかし、日本の社会は、家族は、そして夫さえも加害者意識を自覚せぬまま、長く女性を泣かせてきたのであった。NHKの「おしん」がテレビの世界だけでなかったことは、畜産コンサルタント(2003年1月)に、非農家から農家へお嫁入りした岩手県金ヶ崎町の高橋隆子さんが、「牛舎だけが居心地の良い場で、牛が愚痴を聞いてくれた」と書いたことからもわかる。
自信を持って経営に参画
恵美子さんにとって大きな転機は、1993年に松阪地域農業改良普及センターの指導の下に生まれたフルフルM.I.T.(松阪、飯南、多気地域の専業農家の女性組織)に加わった時であった。会は農業・農村を明るく楽しくし、魅力ある農村女性を目指して学習、研修し、仲間との交流を深めようというものである。そこでの話題は、PTAでのお母さんたちとの会話とは全く違い、仕事や嫁の立場での悩みなどで、彼女自身の不安が自然となくなっていった。その中で、考え方や行動力が抜群の女性に出会い、啓発され、作業だけでなく経営にも力を入れるようになった。
1996年には、パソコンを使って簿記を習い、やがてインターネットにチャレンジし、最新の情報を収集したり、発信したりすることになった。
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人気の高い24時間営業のたまご自販機コーナー
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卵の品質管理については、小さいながらも卵の選別包装をする独自のGPセンターを設置し、産卵したその日のうちに選別してパック詰めし、鮮度を落とさずに消費者に届ける。衛生面ではHACCPグループに参加して、細菌(サルモネラなど)に対し、感染の根本を断つための検査を定期的に続けて安心で安全な卵の生産に努めている。また、温度管理のできる24時間オープンの自販機コーナーと直売所を作った。公害対策では鶏ふんの密閉型発酵装置を採用した。さらに園内を冬でも花いっぱいにしている。
消費者交流にも積極的で、昨年まで「コッコ通信」を発行し、卵についての豆知識を盛り込んだり、商品に愉快な名をつけ、高い人気を得てきたし、今は24時間オープンの自販機コーナーの掲示板を使って情報発信に努めている。さらに、地元の小、中学校からの見学を受け入れ、小学校に招かれて、養鶏の仕事と卵の話をしたりして、「いのち」の教育をしつつ、将来、農業に携わる後継者が地元で育つことを願っている。
養鶏業は「口がついているから、休めず大変でしょう」と言う人がいるが、実は毎週休みが取れるし、夫婦や家族で海外旅行に何度も出かけるばかりか、フルフルM.I.T.の仲間ともベトナム研修旅行に出かけており、ゆとりある生活を実現している。
ここまでくると経営者の一人としての自信は深まり、自分の意見をいい、給料を取り、家になくてはならぬ人と思われている。父は亡くなる前に、土地の権利書を彼女に預け、遺言も託したほど信頼していたというから、まさに経営と家族の中心に居ることがわかる。それでも彼女は、常に快く後押ししてくれた夫に心からの感謝を忘れず仲良く仕事にいそしんでいる。
3.プラントフィールド植田牧場(北海道)
女性は黙って働け
牧場は経産牛43頭、育成牛30頭の酪農経営である。前年度までは、それぞれ56頭、52頭が飼育されていたが、経営主がご病気のため縮小し、後継者一人体制に向けて調整中である。
植田喜代子さんは十代後半、真摯に大地に向き合った宮沢賢治に感動し、農業・農村にあこがれた。短大農業部を出て、農業雑誌編集を経て、北海道の牧場実習で出会った農家出身の男性と結婚した。2人は1976年、湧別町字東芭露の離農跡地に入植、育成牛5頭から酪農経営を始めた。
当地には1965年頃まで戸数300戸があり、小、中学校、郵便局、旅館、酒屋などがあり、にぎわっていたが、入植当時にはすでに29戸までに減り、新規就農が認められた。現在、11戸となり、かつては地域共同で行われた敬老会や葬祭などは形を変え、町の協力を得て実施されるに至った。
彼女は新規参入であったから苦労は少なかったというが、彼女の目でみた当時の農村女性は虐げられ、能力があってもそれを発揮させる環境にはなかった。
農家の嫁は結婚と同時に労働力とみなされ、子を産み、老人の介護をするものと思われていた。365日、朝から夜まで働き続け、新聞を読む時間があれば針仕事をせよと言われ、字の読めない女性が多かった。「女性は勉強する必要はない。黙って働くものだ」という風潮で、彼女の驚きは大きかった。
当時の農村では女性が意識を持って経営に参画すること、いや意識を持つこと自体も由々しきことと、受けとめられていた。
彼女は、「仕事をするならするで、それを習得したいし、自分たちの経営がどこに向かっているのかをきちんと見届けたい」と思うタイプであった。そんな時、小さな転機があった。
1981年から配偶者難の解消に向けて、町が主催して京都市とタイアップの集団見合いが計画された。彼女は京都出身ということで、このプロジェクトに参画を求められた。一方、この地域でも、農家の結婚が家庭内で十分に経済的自立ができていない子息に新しく嫁が加わる形で代々引き継がれてきたのは、おかしい、そこを変えなければならないと考える人もいた。しかしそれに向けての一歩を踏み出しにくい環境は厳然と残っていた。
経営を計数で把えてからは
1983年、農業改良普及員の一人が、女性を対象に複式簿記学習会を立上げた。この計画は「農村のタブーを破る」といわれ、ひんしゅくを買ったが、学習会は始まった。
一方、町に京都女性が増えると、1983年に「京都会」が結成され、時々集まりが持たれた。
会は初め、慣れぬ北海道暮らしに悩む女性の愚痴の場になりかねなかった。しかし彼女たちは農家の嫁になったという意識はなく、たまたま農業を職業とする男性と結婚したという意識が強く、「自分で選択した人生を頑張って輝かそう」と思い始めた。やがて京都以外の女性も加わり、1986年、「はまなす会」と名を改め、地区ごとに集まりが持たれることになった。この勉強会で獣医師、普及員らの話を聞くうちに、それまで経験的に身に付けた酪農技術の断片的な知識が体系化され、自信を持って作業が出来るようになった。また外へ出ることに抵抗感がなくなり、札幌まで出かけ、北海道大学農学部の七戸長生先生を訪ねて、日本農業の経営問題や新しい農村リーダーのあり方などについて教えを乞うなど、何かにつけて女性たちは積極的になった。
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植田喜代子さん(左)と改良普及員の榎田純子さん
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簿記学習で始まった集まりは、やがて湧別町生活改善実行グループ協議会と形を変え、「はまなす会」と相まって、地域女性の地位向上に大きく貢献していった。「これでようやく、自分の今までやってきたことが見えてきた」とか「仕事をするならするで、経営を数値で捉えることが大きな励みになる」などがこの動きに対しての大方の感想である。
簿記を学んだ喜代子さんは経営のデータを計数的に理解できるようになった。そこで、それをもとに夫に助言し始めたところ、「数字を見ると自分は頭が痛くなるから大助かりだ」と言われ、その後、積極的に助言することになった。夫が最初から耳を貸したのは、彼がかつて実習した牧場で、夫人が農作業に全く従事しないで、経営面だけにタッチして、有益な助言をしていたのを思い出したからであった。しかし植田牧場では夫人は農作業にいそしむかたわら、経営分析をするという働き者であった。
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ゆったりと反すうする乳牛(植田牧場)
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経営が見えてくると、ぬれ子のロスを抑える技術が大切なことがよくわかった。子牛は生後10日で育成業者に渡るが、それまでの個別経営で1日当たりの哺乳回数が違っていたり、その際使用するバケツの色が違っていたりして、育成業者に集められた子牛の中には馴致するまでに何日もかかって、その間の発育に悪影響が出た。そこで、それを地域で統一することを話し合ったところ成績がよくなった。以前、女性の集まりでは自分の子育て、料理、家計簿などが主な話題で、酪農の技術的なことになると、「お父さんがこう言ったから」と他人事のように言っていた人も、今では畜産技術を話し合い、とことん理解して仕事に当たり、地域の技術体系向上に努めている。農協の大きな集まりでも、女性同志が連携して、「私もこう思う」などと発言し合って、意見が通りやすくなっている。
喜代子さんは北海道の農業には今まで男の発想が政治的にも、資金的にも重視されていたという。道路を張り巡らせ、トラックが農作物を中央卸売市場へと運んだ。その間、品目は単純化し、大量流通消費の流れができたが、さまざまな環境問題を発生させた。しかしこれからは女性の視点を大切にして、地産地消の時代を作り、多品目生産で地域を再生させるべきだと考え始めている。
4.地位向上への努力
実力をつけてこそ
山下恵美子さんと植田喜代子さんは、ともに結婚を機に農外から農家に入った。新しい地域での生活は当時としては、まだ恵まれてはいたが苦労は多かった。しかし明るい2人はそれに耐え、馴染んで行った。温かい夫の支援があってこそであった。
そのような中で、地域内、家庭内で自然体ながら、いつか実力が発揮できることになれば良いなと考えていた。その機会は農業改良普及組織が女性に簿記を学習させる企画をした時に始まった。それを契機に、「女性は言われたことを口答えせずにしていれば良い」との地域の認識に疑問を感じる女性が増えていった。それまでと違って、経営の内容が理解でき、その問題点も的確に知る人が増えた。
山下さんはそれをもとに卵の販売と消費者交流に力をいれ、さまざまな工夫をした。中でも彼女の発案で始めた年2回の卵のギフト箱を賞品としたアンケートクイズは、客のさまざまな意見や要望が直接聞け、それによって顧客管理が可能となった。
植田さんは酪農技術への関心を深め、ぬれ子のロスの低減や飼養管理技術全般の理論的理解によって、生産性向上と疾病予防対策に自信を持って当たれるようになった。
2人は経営と技術に理解を深めるとともに従来のお手伝いから、経営のパートナーへと変身した。新しいことへの挑戦にも積極的になった。
地域の同業者、異業者、消費者達との交流も単なる付き合いでなく、相互理解を深め、良いと思うことを提案するようになった。仲間から良い啓発を受け、仲間へ情報を発信するようにもなった。
あらゆるチャンスを追い風に
もっとも、経営がすべて順風であったとは言い難く、聞き取りの際に「こんな私でよいのか、いつももがき苦しんでいるのに」と言われた。事実、山下さんは鳥インフルエンザの発生で悩んだし、また経営規模が必ずしも大きくない点が弱いと話された。植田さんはBSEが発生したとき、子牛価格はもとより、酪農全体への逆風を近年受けたと話された。それでも、ともにそれらの問題を乗り切った自信を感じさせて下さった。
このような積極性を身に付けた今、2人はあらゆる機会をとらえて、自分達の経営の発展と地域女性の地位向上に関心を持つようになっている。たとえば酪農ヘルパー制度の利用は技術のマニュアル化の良い機会と捉え、増えた自由時間を乳牛の観察に向け、生活を楽しむことに振り向けている。また、コントラクターやフィードサービスが現れて労働時間が削減できれば、さらに余暇の有効活用ができるし、老齢者の就農年限が延びると期待している。
近年、わが国の社会は制度面で整備が進んでいるので、それを追い風にすべきとも考えている。たとえば家族経営協定や青色申告に踏み切る人が増えることで、より多くの農村女性が家族経営の中で農業労働や家事労働を経済的に正しく評価して、地位向上への途として欲しいとも願っている。
1996年の男女共同参画社会ビジョンには、「男女が社会の対等な構成員として、自らの意志によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、且つ、共に責任を担うべき社会を目指そう」と書かれている。
男性が理由なく羽振りを利かせたがる日本社会の中で、農業・農村においては今、「根雪を融かす、大地のような、ぼくの母親(四季のうた)」が、自ら実力をつけて、新しい時代を拓こうとしている。
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