日本とEU
9月にヨーロッパを訪れる機会を得た。食料・農業・農村政策審議会の企画部会が「中間論点整理」で一段落し、小休止に入った期間を利用しての訪問である。正味1週間という駆け足ではあったが、それなりに充実した調査になったと思う。日本生活協同組合連合会のミッションとして行われた調査であったことから、消費者や流通業の観点をしばしば意識した。私には新鮮な体験であった。
EUの農政改革の現状を把握すること、これが調査の主たる目的である。当然ながら、EUと日本を比べる気持ちが絶えず働くことになる。日本も農政改革の議論の真っ最中だからである。考えてみれば、過去十数年、日本とEUはともに農政改革の歩みを進めてきたわけである。共通農業政策の第1次改革は92年5月に合意された。当時の農業委員の名前をとって、マクシャリー改革とも呼ばれた大改革である。農産物支持価格の大胆な引き下げと直接支払いの導入が改革の柱であった。92年は日本の農政にとっても重要な年である。同年6月に農林水産省から「新しい食料・農業・農村政策の方向」が公表されている。いわゆる新政策である。
コミュニケーション能力
今回の調査では、EU委員会、中央政府、地方政府、そして農場を訪問し、農政改革についてヒアリングを実施した。あらためて強く印象づけられたのは、各段階の説明が明瞭で、ほぼ共通の理解が披歴されたことである。もちろん、改革の中身が単純だというわけではない。この点で日本とEUの農政に大きな違いはない。けれども、改革のフレームワークは着実に浸透している。
この背景として、EU委員会や各国の政府、さらには地方組織の対話能力の高さがあるのではないか。ヒアリングに対する説明に際しても、相手にうまく伝えるための話の組み立てかたや、分かりやすい表現がよく工夫されていた。行政組織だけではない。あわせてヒアリングを行った生協などについても、対話能力の高さと、そのことを意識したトレーニングの存在を感じることがしばしばであった。
改革の理解という点で、また、そのためのコミュニケーション能力という面で、EUの行政組織には一日の長があるように思う。日本の場合、制度の細部へのこだわりや特定の施策に関する情報に関心が偏りがちである。これが率直な印象である。受け止める側には、どれだけの財源がどのような条件で配分されるかに、一喜一憂するようなところがある。もちろん、ヨーロッパにこの種の利害関心が存在しないわけではない。けれども、改革の基本線がかすれて見えなくなることはない。
改革に理解を求める側の姿勢にも首をかしげたくなる場合がある。例えば、むやみに刺激的なフレーズが振り回される。年を追うにつれてそんな傾向が強まっている気がしてならない。むろん、これは農政改革の分野だけのことではない。むしろ、農政にも伝染してきたと言うべきかもしれない。分かりやすさに配慮した表現も、ひとつ間違えば無神経で乱暴な言い回しにつながる。農政改革には落ち着いた日本語がふさわしい。改革の深さと言葉の印象力の強さは別物である。
ブレない改革
EUの農政改革が着実に浸透しているのは、同じベクトルの改革が深化してきたからでもある。ブレが小さいのである。改革の方向をひとことで言うならば、農産物市場に対する過剰な介入に段階的に別れを告げ、他方で農業・農村の社会的な役割に力点をおいた政策を拡充することである。環境保全や農村振興が一段と重要性を増している。動物愛護も政策用語として定着した。農業予算の静かなシフトも始まっている。
ブレが小さいから、改革が浸透していると述べた。いくら優れたコミュニケーション能力であっても、中身が揺れていたのでは話にならない。と同時に、改革がブレないことの根底には、EUの主要国のなかに、社会の望ましい姿について、緩やかながらもある種の共通認識が醸成されている点があるように思う。成熟社会の自己意識とでも言えばよいだろうか。社会全体に方向感覚があるから、農政もふらつかない。
翻って日本の社会はどうか。羅針盤喪失の状態からようやく脱却というところだ。農政の改革も、しばらくは遠くを見つめながら足元を固めていくほかはない。いやここはむしろ、農業・農村の分野から日本社会の将来像に向けた提案があってよい。私たちは、言葉の真の意味での転換点を迎えている。
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