◎今月の話題



研究と大学教育

社団法人畜産技術協会
参与 松川 正

ある研究

 東北地域で主に飼育されてきた日本短角種は、典型的な夏山冬里方式で子牛生産が行われたのが特徴である。冬期間農家の畜舎で飼われていた雌牛は、春先に放牧される。放牧地は牧柵もない山地、多くは国有地で帝国牧野とも言われた野草地である。一群の雌牛に複数の雄牛が混牧されており、生まれた子牛の父親は放牧監視人の観察記録に基づいて決められる。これでは改良推進上支障があるということで、「1雌牛群1種雄牛」が指導された。では1雄牛当たり何頭までの雌であれば満足のいく受胎率が確保できるのか。この課題に取り組んだのが、当時の岩手県畜産試験場外山分場であった。昭和40年代の末ごろから50年代の始めにかけてのことである。

 100頭の雌牛群に1頭の種雄牛を70日間だけ一緒に放牧し、受胎率を把握すると共に、この間の種雄牛の性行動を観察し、精液性状を調査することを5年間繰り返した。1発情周期21日間にわたって24時間連続で種雄牛の行動を追跡もしている。その上、調査したのは日本短角種のみではなかった。頭数規模はやや少ないものの、黒毛和種およびヘレホード種でも似たような調査を同時に行っている。日本短角種の受胎率は5年平均で90%であった。この試験と前後して外山分場では冬の早い東北で放牧期間を延長する技術、冬場の飼料を生産調製する技術など、夏山冬里方式の生産性を高めるための試験研究を広範に行っている。

 今改めてそのデータを眺めると、当時の担当者の使命感、情熱、流したであろう汗の量といったものが行間から読みとれる。それだけにデータが迫力を持っている。今の目からすれば整理の仕方にいささかのやぼったさも感じる。30年前の研究だが、私の記憶にあるいい研究の一つである。


大学における畜産学教育の変化

 近年、大学から学科レベルでは畜産の名前がどんどん消えていき、残っているのは帯広畜産大学(畜産科学科)、酪農学園大学(酪農学科)、東京農業大学(畜産学科)くらいなものである。毎年全国で畜産学専攻の学生が1600人くらい卒業するそうだが、畜産に直接関わる分野に就職するのは1割にも満たないとのことであるし、動物生命科学科などと現代風に名称変更すれば受験生も大幅に増えると聞くから、大学経営上は必然の流れなのだろう。

 私の懸念は、このように現代風に名称変更した学科を卒業した方達の、畜産への帰属意識、愛着はどのようなものかということである。畜産の看板を下ろしてから時日が経つにつれて教員も代替わりして、畜産に対する帰属意識を持たない教員が増えるのは当然であろう。畜産学専攻とは言っても、学内全体に畜産のにおいが薄れれば、畜産に対する認識は宙に浮いたものとなる。細胞やDNAなら扱えるが家畜は扱えないという畜産専攻学生が増えていきはしないだろうか。


研究所の研究は変わったのか

 最近の試験場や研究所の畜産に関する研究を見ていると、かつての、上に挙げた例のような規模と迫力と情熱のある研究が少なくなったと感じるのは私のひが目か。研究水準は30年前とは比較にならないほど上がっているに違いない。研究報告もそつなく書けている。やぼったさはない。しかし、読んで迫力を感じるものは多くはない。

 大学では論文にしやすいテーマ、よりインパクトファクターの高い雑誌に載りやすいテーマが選ばれる傾向があり、正面から畜産と取り組もうとする研究は評価されにくく、そのために研究費の獲得もままならぬと言う。畜産の看板をはずしてしまった大学で教育を受けた学生はこのような風潮の影響を受けてはいないだろうか。

 畜産に対する帰属意識の醸成、研究課題の選定の仕方、こういう点ではかつての大学畜産学科と最近の動物云々学科とは違ってきているようだ。こういう事を考えながら試験場・研究所の研究報告を眺めるから上に述べたような印象を持つのかもしれない。とすれば私は偏見に左右されているわけだ。上に述べたのは私のひが目でした、とひとまず妥協しておこう。この点はまた別のところで考えてみたい。


まつかわ ただし

プロフィール

1961年帯広畜産大学獣医学科卒業。同年農水省入省。72年農学博士。87年農水省技会事務局研究開発官。94年農水省畜産試験場長。97年(社)畜産技術協会付属動物遺伝研究所長。04年現職。


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