◎専門調査レポート


酪農から転換した和牛繁殖経営

放送大学京都学習センター
所長 宮崎 昭

和牛増頭の新しい受け皿

 米国産牛肉の輸入が再開されたが、一連のBSE問題を経験したわが国では食の安全への関心が今までになく高まっている。国民の多くは国産牛肉がトレーサビリティ制度の導入によって、安心して消費できる食材と認めており、その生産増強がこれまで以上に望まれている。

 国産牛肉は肉専用種、乳用種、そして交雑種により供給されるが、そのうち肉専用種飼養頭数は平成14年以降ほとんど変っていないので、長年続いた減少に歯止めがかかった感がある。一方、乳用種と交雑種はともにわずかに減少している。したがって国産に占める肉専用種の比重がこのところ少し重くなっている。これは牛肉生産の高級化・高品質化の進展によるもので肉専用の和牛に対する需要が底堅く、増頭意欲の高い経営が現れているものとみられる。農水省も繁殖雌牛の毎年1万頭の増頭を平成27年まで続けようとかけ声をかけている。

 そうは言っても生産現場を歩いてみると、和牛経営では高齢化が進み廃業をするとき、そこにいた牛が地元に保留されることが少ない。その理由は牛舎にスペースがなかったり、自給飼料基盤が弱いためである。そういう状況の中で酪農から和牛繁殖への転換が注目できる。

 酪農には質の高い労働力が必要であるため、高齢化する経営や後継者が得られない経営では和牛繁殖に活路を求める動きが芽生えている。酪農家は、もともと繁殖に慣れているので、この転換は魅力的でもある。そこでその事例を調査して、今後の和牛生産発展のための方向性を検討することにした。そのため、(社)中央畜産会の協力を得て、北海道の中標津町「舟田正義牧場」、長万部町「戸井稔牧場」および洞爺湖町「内田誠一牧場」の3か所を選んだ。加えて、神奈川県相模原市の「村田善秀牧場」についても調査した。


舟田牧場
和牛への転換は無謀か

 中標津町では広大な緩傾斜地での草地型大型酪農が主体で、この経営は搾乳牛50頭、育成牛30頭で続けられてきた。しかし平成4年の生産調整による食紅添加の赤い牛乳の発生で将来に不安を持った。そういう中で、畑作の補完に中標津肉牛振興会が乳雄、F1そして和牛の飼養を勧めていたこともあって、思い切って和牛繁殖雌牛5頭を導入した。その後少しずつ増頭し、14年に搾乳牛をすべて出荷し、和牛成雌48頭、F1成雌40頭の経営に転換した。

 酪農地帯のこと故、和牛では食べていけないと言われ、特に生産調整が終わって酪農が安定的になると、地元では異色の経営となった。しかし、和牛振興に信念を持つ熱心な農協職員を信じての転換であった。その人は子牛市場が終わると、購買者に礼状を出して、次はどの系統の子牛が出るのでよろしくと添え書をするような方であったが、惜しいことに9年前に亡くなった。現在、草地は76.2ヘクタール、すべてが改良草地でチモシー主体である。

 労働力は経営主(58歳)、妻と2人の子息(31歳と25歳)の計4名で、和牛成雌61頭とF1成雌47頭を飼養し、子牛生産に当たっている。F1は和牛受精卵移植用であるが、2、3回移植を試みて受胎しないときは人工授精で和牛を交配し、F1クロス(F1X)を生産している。経営全体でみれば分娩間隔は14カ月である。

 酪農に慣れた目で初めて和子牛を見たとき、なんと弱々しいものかと思ったというが、繁殖技術には自信があった。しかし当初、子牛に下痢が出たので、その後は10日齢で早期離乳し、代用乳と人工乳で育成している。一方、F1から生まれた和子牛は比較的大きく、また母の乳量が多いので親につけておくだけで育ち、手間がかからない。

 自給飼料は乾草とロールサイレージで、和牛になってからは毎年余るほどなので、ゆくゆく成雌を50頭増やし、株式会社にしたい意向を持っている。乾草つくりは乳牛のときほど質を考えなくてすむので気が楽になった。


花に囲まれた新しい生活

 和牛に転換した後、ごく最近、簡易育成牛舎を新築した。フッ素フィルムの屋根は雪の多いこの地でも雪を屋根に積もらせず、また太陽光透過率30%なので牛舎内は木漏れ日の明るさで、牛にも人にも快適である。道東で初めてこの牛舎を建設したことを誇り、建築見積り額の85%で竣工できたというから、酪農で培った経営感覚は確かなものである。

 繁殖成雌のほとんどは放牧である。家のすぐ横の放牧場の入口近くに長い連動スタンチョンがあり、極少量の圧ぺんトウモロコシを与えて牛を寄せて保定し、人工授精など日常の管理作業に牛を慣らせているが、もともと乳牛用の設備を転用したのである。


新しい育成牛舎は屋根に雪が積らない(舟田牧場)

 和牛に切り替えてよかったことは創意工夫ひとつで子牛が高く売れる点である。乳牛ではそうはいかなかった。そこで子牛市場に出かけては仲間と飼養管理技術を勉強することにしているが、子牛の仕上げ期を担当する夫人は特に熱心という。

 ただ、最近、死産、流産が多くなったのが気になる。当地では酪農経営には多くの情報がFAXで送られているのに、畑作をしながら少頭数の和牛を飼う経営にはそれが十分伝わらないことがあった。和牛にしてから舟田氏のところにも情報が少なくなっている。もし、情報が伝染性疾病の予防に関するものなどであれば対応が遅れるので、そのあたりを改める必要があると行政や獣医師と相談している。

 酪農から和牛繁殖に転換して、生活の質が大きく変化した。まず、労働時間が比較にならないほど短くなった。それを生かして、家の内外の環境整備に心がけ、周りに花畑をつくり、また酪農のときに手が回らなかったさまざまなことを改善している。花ある生活はかつては夢のまた夢であったが、和牛のおかげで実現した。労働力も4名であるから、ヘルパーに頼らなくても自由に休みがとれ、夫人は近年、国の内外の旅行を楽しんでいる。

 

戸井牧場
タイミングよかった方針転換

 長万部町は酪農地帯であるが、15年ほど前から高齢化が進み、搾乳作業が負担になって和牛繁殖へ転換する経営が出始めた。搾乳牛35頭を長年飼養していた戸井氏が平成8年に余力的に3頭の和牛を飼い始めたのはこのような土地柄からであった。それが11年になるとすべての搾乳牛を出荷し、和牛成雌25頭の専業になった動機はいくつかあった。

 当時46歳と若かったが、戸井氏は搾乳は年齢が進むと、きつい仕事になりそうだと考えた。次にこの経営の立地条件が泥炭地で水はけが悪かったし、草地も飛び地が多く、酪農ではこれ以上の増頭が望めなかった。さらに、20年ほど使ったバーンクリーナーやバルククーラーなどが更新期を迎えていたので、それに500〜600万円を使うぐらいなら、思い切って和牛を20頭買ってみようと思った。当時和牛は家畜商を通しても安かったし、9年以降は町の畜産公社の貸付牛制度に乗ると血統のすぐれた「安平」の子牛が容易に手に入った。農業改良普及所も和牛導入を勧めていた。

 現在、草地は、オーチャードグラス、チモニー主体で22.5ヘクタール、うち3ヘクタールが放牧地である。労働力は経営主(53歳)と三男(19歳)の2人で夫人も一部手伝っている。和牛繁殖成雌は48頭に増頭し、子牛生産に当たる傍ら、肥育牛も数頭飼っている。

 酪農から和牛に転換すると、和子牛はとても弱々しく感じた。生時体重がホルスタインより10キログラム以上小さい和子牛は、下痢ですぐに脱水症状を起こし、当初は死なせたこともあった。しかし、もともと体力がないと知ってからは、症状によっては割増料金を支払って獣医師を夜中に呼ぶなどして解決していった。子牛は40日齢まで母牛につけ、その後離乳して代用乳や人工乳を与えて育成する。早期離乳であるから、母牛は年一産を保っている。


自給飼料による繁殖牛の飼養(戸井牧場)


労働軽減で新しい試み

 長万部町の和牛経営は27戸、うち20戸が高齢者で80歳以上が3戸ある。最高齢は88歳で和牛2頭を飼っている。それを知る地元の人々は高齢でも和牛なら飼えると考えている。また、それを支えるため、農協職員が子牛の市場出荷を手伝っている。出荷予定の子牛に特別の色の頭絡をつけておくと、早朝牛舎に誰もいなくても、市場へ子牛を上場してくれる。

 自給飼料は十分あり、和牛は草さえあれば飼養できるし、さらに草の品質に関しては乳牛のときほど気を配らなくてもよいので、乾草つくりに天気を気にすることもなくなった。ただ、市場へ出荷する前の子牛にだけは良質の乾草を与えるようにしている。酪農で使った牛舎は今ではバルク室、配合飼料室などのしきりを取り払い、数頭ずつ群飼できる牛房を増やし、乾草庫も育成牛舎に変えた。

 和牛になって気分が楽になるとともに時間的余裕ができ、子牛市場へ出かけて飼養管理技術を勉強しているうちに、ここから出荷される子牛が市場平均より常に高く売れるようになり、経営が安定しつつあると実感している。労働力が2人なので交替で休むことは容易であるし、酪農のときからの月一回のヘルパー利用は今も続けているので楽をしている。

 家の周りには立派な立木が植木屋が手入れしたように並び、美しい花が咲き誇っている。家族が趣味としてこのようなことができるのは和牛に転換したからこそである。

 牧場には和牛肉直販コーナーがあり、国道5号線から宣伝ののぼりが見える。戸井氏は子牛の中から数頭を選び子牛市場へ出さず、そのまま肥育して700キログラムに仕上げている。それを函館でと畜し、良いものは十勝の枝肉市場で売るが、1頭は枝肉まるごと持ち帰り、焼肉用パックとして直販する。直近の成績では牛肉の売上げが55万円で生産費がやっとカバーできる程度であった。もし十勝で枝肉がA4にでもなれば80万円の収入が望めるのであるが、自分が食べてこんなに美味しい和牛肉を地元の人々に安い値段で食べてもらいたいとの思いが強い。それを実現させるべく、ゆくゆくは肥育牛を20頭まで増頭し、繁殖は後継者の子息に任せて、自らは肉牛生産を担当する予定である。


家の周りはとても美しい(戸井牧場)


内田牧場
年齢と立地を考えた選択

洞爺湖町では高級菜豆(インゲンマメ)栽培を中心に酪農もしくは肉牛との複合経営が多い。内田氏はここで菜豆と小豆の栽培をしながら、搾乳牛20頭の酪農を営んできた。現在70歳であるが十数年前から和牛への転換を考え始めた。それは後継者がいないし、年とともに搾乳作業が負担になるに違いないと考えたからであった。労働面からだけでなく立地条件から見ても、山地にあり草地はいずれも斜面を選んでつくらねばならない。家の後の大きい放牧地を除くと、採草地は小面積で点在し、中には歩いて横切るのに一苦労という斜度の大きい草地もある。

 そのため、酪農を続ける限り規模拡大は望めないが、和牛繁殖なら放牧でそれらをうまく活用でき、増頭も望めそうで、転換は魅力的な選択であった。さらに、乳質規制が厳しくなって、対応に苦慮したこともあった。それでも完全に和牛だけの経営にするには勇気がいったが、背中を押したのは正直言って朝の搾乳が大儀になったからである。


傾斜地にある採草地(内田牧場)

 平成6年、和牛繁殖雌牛5頭を導入し、その後も酪農を続けながら、15年に和牛が19頭にまでなったので、搾乳を完全にやめた。

 現在、草地は13.9ヘクタール、すべて改良草地でオーチャードグラス主体であるが前述したとおり、乾草つくりには実に苦労が多い。労働力は経営者1人で、夫人は酪農を手伝っていたが、今は牛の世話をしていない。現在25頭の繁殖成雌を飼養して、子牛生産を行っている。

 毎日の搾乳作業から解放されて、本当に体が楽になったと感じたが、人間、勝手なもので今ではそれが当たり前になったと笑う。
酪農に慣れた目で、和子牛をどう感じたかを聞くと、実は40年前、物好きと冷やかされながら、町内で初めて和牛を飼った経験があり、生時体重は小さいが結構丈夫で野生的だという。しかし和子牛は、下痢をすれば衰弱が早いのですぐに処置をするよう心がけている。

ただ者ではない物好き

 自給飼料については、十分な草が生産されるので購入することは全くない。ただ、乳牛の時のように早刈りの栄養たっぷりの乾草を和牛繁殖雌牛に給与すると、おどろくほど過肥になり、それを押えるのに苦労する。そこで、ここでは放牧中心で母牛を飼い、子牛、育成牛は舎飼いとし、パドックで運動させながら採草地で生産した乾草を与えている。放牧場は3牧区に分けて、1カ月毎のローテーションとしてきたが、今年は雪解けが遅れたことや夫人の病気で手が回らなくなり、全面放牧としていた。

 乳牛舎はスタンチョン式であったが、内部を改造して和牛を群飼できるバーンにした。和牛導入後の飼養管理への工夫も特になかったというが、和牛をよく知っていたためであろう。全般的にはすべて大まかになったという。ただ、ふり返ると和牛は乳牛より発情発見が難しいと言うが、乳牛では1日2回の搾乳時、後から牛を見ていたが、今、和牛は前から見るだけだからそう思うのかな、と的確に自己分析をしていた。

 子牛は4カ月齢まで母牛につけ、その後は人工乳を与えている。母牛についているときには子牛だけが良質の飼料を食べられるクリープフィーダーを設けている。やがて子牛は出荷に向けて良質の乾草と濃厚飼料を給与される。

 室内での聞き取りを終え、牛舎を歩いてみると、和牛に混じってホルスタインの見事な育成牛が3頭いた。不思議に思って尋ねてみると、いずれも和牛受精卵を移植したもので、50頭以上の搾乳牛のいる酪農経営から預かった2頭と内田氏の1頭という。その酪農家は忙しくて十分な世話ができないため、腕の確かな同氏に預け、いずれは共進会に出品する予定という。こんなことをやるのは物好きだからと笑うが、新しいことに挑戦するのが好きな方である。30歳のときに和牛を飼った経験が今生かされているし、酪農をやめたにもかかわらず、ホルスタイン育成牛を預ける人がいるのは、同氏がただ者でない証しである。


村田牧場
一腹搾りからの転換

 相模原市ではかつて酪農がさまざまな形態規模で盛んに営まれていた。しかし、昭和30年代後半から首都圏の拡大とともにベットタウンとして発展し、小田急線沿線から徒歩5分のこの牧場の周囲はビルが多く建ち並ぶ市内の一等地となった。その結果、酪農はこの地域にはまれになった。

 村田氏はデントコーンを栽培しながら、近隣から運び込まれるビールかすやおからを積極的に飼料として利用し、さらに畑作副産物のさつまいもつるやくずじゃがいもも活用し、搾乳牛20頭の一腹しぼりを行っていた。

 しかし、平成3年頃から乳質規制の強化で、一腹搾りでは対応が苦しくなった。さらに酪農仲間の老齢化への懸念から、市が和牛の導入を計画した。相模原牛を造ろうと、年20頭の5カ年計画で始められたものの参加者に限りがあり、4年目80頭導入で終了した。

 その頃、和子牛4頭を入れたのが始まりで、この牧場は9年に完全に和牛牧場に転換した。飼養規模は成雌7頭、育成牛3頭、子牛4頭程度で、それを今まで維持している。

 市街のどまん中に、自宅と牛舎があるという稀有の事例である。

 和牛への転換以来、試行錯誤の連続であった。導入に当たり、市が補助金を出し、農協が融資する制度資金を利用したが、経営面や飼養技術面での指導は適切とは言えなかった。

 和牛の専門家がいないままの事業実施だったのである。その結果は苦しいことの連続であったが、独学で今までやってきたという。

 現在、草地は2.5ヘクタールうち2.0ヘクタールにオーチャードグラス、イタリアンライグラス、アルファルファを栽培し、7年からこの地域に初めて導入されたロールベーラーで収穫している。自宅から5キロメートル離れた草地へは交通量が多い中を大型トラクターを走らせ、時折、たい肥も運んでいる。労働力は経営主(74歳)1人で、夫人は困ったときに手伝う程度である。分娩間隔は15カ月と比較的長い。


乳牛舎はそのまま和牛で利用される(村田牧場)


苦労が多い近隣との協調

 子牛は4カ月齢まで母牛につけ、その後、育成用飼料を与える。和牛に切り替えたとき、乳牛と違って母牛が初産のとき、子牛が近づくと肢を上げ、乳を飲ませないのに驚いた。その経験から、乳牛から和牛に転換する当初、2,3産したベテランの雌牛を導入するのが一手という。また、飼養管理技術については、よほど親しくならないと和牛界の人は教えてくれないことも知った。酪農においては何かと協同で力を合わせて全体のレベルアップをしてきたのとは大違いであった。そこで、農協などの指導者に弟子入りしたつもりで積極的に聞くようにし、また、子牛市場にも出かけて情報に接し、さらに先進地視察などで技術を研くのが良いと感じている。

 和牛に転換してみると労働は3分の1に減ったし、草の生産でも乳牛のときほど質への配慮が必要でなくなったので、気持ちも楽になった。さらに酪農ヘルパー組合に引き続いて参加しているので、長くは休まないが、牛舎を気にしない日も取れている。村田氏は地域の世話役として積極的な活動をしてきたので、それに時間が多く割けるようになった。
 
   今日、全国的に食育の重要性が叫ばれているが、都市化とともに子供たちが生きものと接触することが難しくなっていく当地で、23年も前から牧場を小学生に開放している。その運動体の相模原市農業体験学習推進協議会を立ち上げ、その会長を長年続ける同氏は市民から広く慕われている。しかし、立地が立地であるため、サイレージやたい肥が悪臭の源と感じる人もいて、環境問題には苦労が多い。

 将来、ここで今のような形で和牛経営が続けられるのか、規模拡大が環境問題などで苦しい中で後継者に良い形で渡せるのかと心配事は多い。しかし、何よりも牛が好きで手離せないとの村田氏の発言を聞くと、畜産関係者にとって、いかにも頼もしい経営者と感じられるのであった。


創意工夫の好きな経営者

 訪れた4牧場の経営者はいずれも新しいことへの挑戦が好きで、創意工夫のできる実行力がある人々であった。そこでは規模の違いや和牛へのかかわりからくる経験に合わせて、酪農から和牛への転換に上手に対応していた。

 転換の直接の動機は、舟田氏は乳牛飼養頭数が大きい分、赤い牛乳によるショックが大きかったものと考えられる。戸井氏は泥炭地で水はけが悪く、規模拡大が無理の中で、機械類の更新が必要となったとき、酪農と和牛繁殖をてんびんにかけ、後者に踏み切った。内田氏は山がちの地で規模拡大が困難な中で、朝の搾乳が大儀になったためであった。村田氏は一腹搾りができなくなっての決心であった。しかし、共通的には、酪農より和牛繁殖が労働力の点で楽なことを知り、年齢を考えての決定が底流にあった。

 乳牛舎は程度に差はあるものの、いずれも簡単に改造され、少頭数が群飼できるバーンにしている。中には搾乳牛用の連動スタンチョンを使い放牧中の和牛を捕獲して処置したり、飼養頭数が多いところでは子牛育成舎の新築まで進めていた。


大切な自給飼料基盤

 転換後の飼養規模は北海道の3事例ではいずれも拡大していた。舟田氏は搾乳牛50頭を和牛48頭、F140頭におきかえて4年後、和牛61頭、F147頭まで増頭し、さらに草に余裕があるので和牛50頭を上乗せする意向であった。戸井氏は搾乳牛35頭を和牛25頭と低くして転換したが、7年後の今、48頭に増やした。内田氏は搾乳牛20頭を和牛19頭におきかえ、3年後の今、25頭とした。これら増頭を可能にしたのは、いずれの経営においても草があり余るためである。一方、神奈川県の事例では一腹搾り20頭の集約的飼養から、和牛親子含めての14頭規模にとどめている。それは自給飼料基盤を考えての決定と考えられる。

 和牛は搾乳牛と違って、草の品質をあまり意識しなくてもよいので、早期の適期刈取りにこだわらなくても良いので、天候を気にしない精神的に楽な生活ができるようになったようだ。いずれの経営でも良い草は子牛に与えるだけで、繁殖牛の過肥を避けていた。

 子牛育成に関して舟田氏が生後10日齢で、戸井氏が40日齢で離乳させて代用乳、人工乳を与えて育てていた。そこには酪農における早期離乳の経験が生かされている。内田氏が4か月齢で離乳しているのは、以前、和牛を飼養した経験があったためと思われる。村田氏も4か月齢で離乳しているが、和牛に関する本をいくつも読んで勉強した結果であろう。


労働の軽減で生活の質が向上

 村田氏が書物から学んだ背景は、当地の和牛導入計画が十分な技術面での指導体制のないまま行われたことである。「和牛も牛なら乳牛も牛、同じだ」とか「和牛にすれば体がうんと楽になる」と、市の和牛導入方針推進者の勧めに乗った日から、苦労が始まった。

 相模原牛を造ろうとの意気込みで、当時、島根県の糸桜系の子牛を入れようとしたが、70万円は高すぎるとためらうと、それでは40万円ほどの子牛を2頭入れてはと勧められた。こうして導入した和牛が産んだ子牛はやがて静岡県三島の市場で、ただ同然の安値となった。安物買いの銭失いのたとえのとおりになった。

 1回の登録の乳牛に慣れた人々にとって、2回ある和牛の登録を知らずに、売れぬ子牛を生産した人もいた。また肉質がこれほど重視される和牛の商取引を知らず大損もしている。和牛に乳牛と同じ牧草を多給して肥らせ発情が微弱になったこともあった。これらの克服はすべて生産者に任されたのであった。羅針盤のないまま船出した小舟の有様で、すべては独学で今日に到った。

 このような経験をした人もいるが、和牛に転換すれば、いずれも時間的余裕が生じた。それを生かして舟田氏と戸井氏は子牛市場へひんぱんに足を運び、和牛仲間を増やし、飼養管理技術の向上に余念がない。また、舟田氏は自宅の周りに花をつくり、戸井氏は植木の手入れにいそしみ、美しい景観の中で生活を楽しんでいる。内田氏は後継者がいないので牛舎には金を入れず、自らの家を新築して快適な生活を求めている。村田氏はますます地域の役職を引き受け、いきいきとした毎日を過ごしている。

 今回、北海道3事例に加えて、神奈川県の例を見たのは、北海道における酪農から和牛繁殖に転換した例がいずれも良いことずくめであったが、問題点をもつと明らかにしたいため、失敗の多かった例として特に頼んで見せていただいた。それによって、この調査がさらに多くの人の参考になるものと思う。
 


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