はじめに
日本の種鶏ふ卵場は、戦前、戦後を通じて、鶏卵産業および鶏肉産業の振興と発展の基盤となってきた。
ブロイラー用初生ひなの年間総産出額は約400億円で、鶏肉の流通(卸売)段階での総売上高約3,000億円の13%にすぎないが、ブロイラー用初生ひなの供給が円滑、適切に行われなければ、鶏肉の安定供給はあり得ない。
種鶏ふ卵場の経営は、種鶏ふ卵施設の固定投資が大きい上、ペアレント・ストック(種ひな)の代価を含む1世代15カ月間の出費とリスク負担も大きい。
種鶏ふ卵場の多くは、戦後間もなく創業して、2〜3世代にわたって困難な経営環境の中でブロイラー用初生ひなの安定供給を続けてきたファミリー企業である。
本稿では、ブロイラー種鶏ふ卵業の歴史と現況を総括するとともに、代表的な二つの種鶏ふ卵場についてその業容を紹介したい。
1 日本の種鶏ふ卵業
日本で、種鶏(breeding stock)を飼養し、種卵を採取してこれをふ卵機でふ化して初生ひなを販売する事業、すなわちふ卵業(commercial hatchery)が始まったのは大正時代(1920年代)で、当時のふ卵器は石油ランプを温源とする小型の平面式であった。電熱を温源とする立体式のふ卵機が汎用されるようになったのは昭和10年(1935年)頃以降のことである。
種鶏は、昭和の初期に全国5カ所に開設された国立種畜牧場や後に各府県に設置された養鶏試験場が、主としてアメリカから輸入した卵用種や兼用種の純粋系統を改良・増殖して、これを民間の種鶏ふ化業者に配布した。
民間の種鶏ふ化業者は、自家でも種鶏を飼育・繁殖したが規模が拡大してくると、近隣の農家に種鶏を飼育させて生産された種卵を買い上げて、ふ化販売する種鶏の委託飼育が一般化した。
昭和40年代からは、それまでの卵用種や兼用種の純粋繁殖に代わって、遺伝学を応用して大量育種に成功したアメリカの育種会社から斉一で高能力の系統交配種(strain cross)や交雑種(crossbred)が直輸入されることになる。この場合、民間の種鶏ふ卵業者は直接または輸入商社を介してアメリカの育種会社とフランチャイズ契約を結び、毎年必要数の種ひな(parent stock)を購入する。種ひなの輸入羽数が増えてくると、輸入商社または種鶏ふ卵業者は、原種鶏(grandparent stock)を輸入して、国内で種ひなを生産、販売するようになる。
アメリカの育種会社の多くはその後西欧の企業に買収されて整理統合が進み、現在では採卵用、ブロイラー用合わせてわずか数社に寡占化されたが、上記のフランチャイズ契約方式は継続して、現在ではほとんどの種鶏ふ化場が欧米育種会社の契約ふ化場となっている。
また、種鶏の飼育が大規模化し、また飼育技術も高度化したため、種鶏の委託飼育は減少して、大部分の種鶏は種鶏ふ卵場の直営種鶏場で飼育されている。
2 ブロイラー・インテグレーションと種鶏ふ卵業
1930年代に、アメリカ・ジョージア州の飼料業者ジョエル氏(Mr.J.D.Jowell)は、飼料製造工場のほかブロイラーの種鶏・ふ化場や処理加工場も所有して、アメリカでのブロイラー・インテグレーション(垂直統合経営)の先駆者となった。この経営方式は瞬く間に全米はもとより、全世界に普及して、ブロイラー産業は年間6,000万トン(全世界生産量:骨付肉重量)の鶏肉を生産する巨大食肉産業となった。
アメリカのブロイラー・インテグレーションは、1企業が種鶏・ふ卵、飼料製造、ブロイラー生産(直営または契約)、処理加工、販売の全部門(段階)を所有、経営する垂直統合経営だが、日本では、ブロイラー生産が本格化した1940年代のはじめ頃、すでに多数の飼料工場および種鶏ふ化場が操業しており、十分な数量の配合飼料やブロイラー用初生ひなの供給が可能であったため、インテグレーターは自ら投資して飼料工場や種鶏ふ化場を所有・経営する必要がなかった。
インテグレーターの中には、一貫生産にこだわって、最初から種鶏・ふ卵場を直営する企業もあったが、多くは既存の種鶏ふ化場からブロイラー用の初生ひなを調達した。
しかし、インテグレーター間の競争が激化し、輸入鶏肉との競合も加わって一層の合理化(コスト切り下げ)が求められるようになり、一方インテグレーターの直営ブロイラー生産も増加してくると、種鶏ふ化場もインテグレーターの直営へ移行せざるを得ない。
平成16年2月1日現在のふ化業者数(ブロイラー)77戸のうち何戸がインテグレーターの直営であるかは不明であるが、業界関係者の推定では、独立経営ふ卵場50%、インテグレーター直営50%の割合(ブロイラー用初生ひな生産羽数比率)であろうと言う。
年間2,000〜3,000万羽を出荷する大規模産地処理場でも、全羽数を外部(独立ふ卵場)からの供給に依存している企業もあり、また直営の種鶏ふ化場をもつインテグレーターでも、ブロイラー用初生ひなの自社生産は8割程度にとどめ、残りの2割分は外注してブロイラー生産数量の調節に備えている企業も少なくない。
ブロイラー用の種鶏の採種は標準的には450日齢頃までとしても、前後1カ月程度の短縮・延長は可能であるから、独立ふ卵場のブロイラー用初生ひなの生産調節機能は極めて大きく、これによってブロイラー生産量(供給)の季節的調節や短期的需給調節が実現されていると言っても過言ではなく、独立経営種鶏ふ化場の鶏肉産業への貢献は高く評価されねばならない。
3 ブロイラーふ化場の戸数と規模
社団法人中央畜産会がまとめた平成16年2月1日現在の全国のブロイラー専用ふ化場数は77戸で、このほかに採卵鶏とブロイラーの両方をふ化しているふ化場が15戸ある。
表1に見られるように、昭和35年のふ化場数は1,471戸で、これが平成16年には(採卵鶏、ブロイラー合わせて)143戸と10分の1以下に減少している。
ふ化場数が採卵鶏とブロイラー別々に集計されるようになった昭和50年のブロイラーふ化場数は188戸であったから、平成16年の77戸は過去30年間にブロイラーふ化場数が6割減少したことになる。
年間のブロイラー用初生ひなふ化羽数規模別では、
5万羽未満 |
:8戸 |
5万羽〜40万羽 |
:9戸 |
40万羽〜100万羽 |
:5戸 |
100万羽〜200万羽 |
:6戸 |
200万羽〜500万羽 |
:15戸 |
500万羽以上 |
:31戸 |
で、年間500万羽以上を生産する大規模ふ卵場のウエイトが圧倒的であることを示している。
現在、全国のブロイラー生産者数は3,000戸足らずで、1戸当たりの年間生産羽数は約20万羽、年間5回生産として1回4万羽のえ付けであるから、小規模なふ卵場では対応できない。上述の規模別戸数で年間生産羽数200万羽未満のふ卵場は特殊鶏(地鶏、銘柄鶏など)のふ卵場であろうと推測される。
ちなみに、ブロイラー用初生ひな1羽を仮に62円と評価すれば、日本のブロイラー種鶏ふ卵業全体(年間6億5千万羽)の売上高は403億円となる。
表1 ふ卵場数の推移(単位:戸)
4 種鶏の導入計画とブロイラー用初生ひなの計画生産
レイヤー(採卵鶏)およびブロイラーのふ卵場の全国組織である社団法人日本種鶏孵卵協会では、毎年全国のブロイラーふ卵場(平成17年度の場合は59ふ卵場)から報告されたブロイラー用種鶏の導入実績羽数および導入計画羽数を基に、毎月のブロイラー用初生ひな生産羽数を推計している。
例えば、平成18年のブロイラーの(初生ひな)え付け羽数は、6億6,113万羽と見込まれている(農林水産省)が、これに対して上記日本種鶏孵卵協会の推計では年間6億4734万羽のブロイラー用初生ひなの生産が予測されており、年間では1,379万羽の不足となる。
このようなえ付け羽数と生産羽数の相違は、月によって変動し、その過不足羽数(月別)は、あらかじめ公表されているから、ブロイラーふ卵場はブロイラー用種鶏のとう汰時期を早めたり遅らせたりすることによって初生ひなの過不足を未然に調節することができる。
ブロイラー用の種鶏は、その導入月やふ卵場の方針によっても異なるが、標準的には、190日齢頃から種卵の採取を開始し、450日齢前後で種卵採取を終了して、種鶏はとう汰される。この間種鶏(メス)1羽当たり約160個の種卵が生産され、この種卵から約130羽の初生ひなが生産される。190日齢から450日齢までの間の種卵生産は種鶏の日齢とともに変化するから、ふ卵場はそのことを計算に入れて計画的に種鶏を導入する。
前述の59ふ卵場のブロイラー用種鶏(メス)の平成17年1〜12月の導入羽数実績は485万2,784羽で、この羽数は農林水産省大臣官房統計部発表のブロイラー用種鶏(国内産)出荷羽数と輸入羽数の合計(492万1,000羽)の98.6%に相当するから、日本種鶏孵卵協会の推計によるブロイラー用初生ひなの生産予測は極めて信頼度が高く、これによってブロイラー用種鶏の導入およびブロイラー用初生ひなの生産が計画的に遂行されている。
5 年間6,500万羽のブロイラー用初生ひなを生産する
−株式会社 森孵卵場−
(1)森孵卵場の歴史
香川県観音寺市大野原町に本社を置く株式会社森孵卵場は、現社長森英雄氏の父和吉氏が森電熱孵化場として1949年に創業した。
森和吉氏が養鶏を始めたのは戦後すぐのことで、香川県の養鶏試験場から25羽の白色レグホーン種鶏の払い下げを受け、これを増殖し、自家製のふ卵機(10,000卵入り)で孵化した初生ひなを販売した。
昭和34〜35年(1959−60年)頃には、ロードアイランドレッドと横斑プリマスロック(いずれも卵肉兼用種)を交雑してできた交雑種(メスは全身黒羽色で頸部だけ金茶色羽装のためゴールデン・ネックと呼ばれた)を作出、メスは採卵用、オスは若どり(肉用)生産用に販売した。同時にゴールデン・ネックと白色レグホーンの交雑種も、同じくメスは採卵用、オスは肉用として販売した。
種卵を生産するための種鶏は自家でも飼育したが近隣の農家にも委託飼育させた。
種鶏の飼育はケージ飼育で、人工授精であったから、種卵の生産は極めて経済的で、平飼いでは種メス100羽当たり種オスは10〜13羽を必要とするが、人工授精では種オスは3〜4羽で事足りる。その上ケージ飼育の種鶏は就巣鶏も少なく、巣外卵はなく、破損卵も少ない。
ケージ飼育の種鶏舎は2段ケージで1棟1,000〜2,000羽を収容し森式鶏舎と呼ばれて約100戸の農家が委託飼育していた。
昭和34(1959)年の後半には初生ひなの注文が増加して、年間を通じてふ化する繁忙となった。昭和30年代までは、ふ化場は一般に春と秋の2季だけしかふ化営業しなかった。一般に採卵鶏の更新用のひなは春と秋だけしか育すう育成しなかったからである。ブロイラー用初生ひなの需要が増えて、ふ化は周年化することになった。
昭和37年頃には東京家禽のコーニッシュとニューハンプシャーの交雑種の生産販売を始め、また昭和38年にはブロイラー専用種ピルチ、アーバーエーカー両社(アメリカ)の白色プリマスロックも導入した。自家種鶏のゴールデン・ネックにもコーニッシュを交雑してブロイラー用として販売した。
この頃、森孵卵場のひなは香川県下、四国各県から兵庫県、山陰、九州にまで販売されていた。
昭和30年代(1956〜1964年)は、昭和20年代の採卵用一代雑種のオスひなの若オス仕立てから兼用種オスひなや兼用種とコーニッシュの交雑種のブロイラーに変換した移行期で、昭和40年代(1965年以降)からのブロイラー専用種時代までのつなぎの時期であった。
昭和41(1966)年には、森孵卵場は全種鶏をブロイラー専用種に切り替えたが、この決断によって、森孵卵場はブロイラー専用種ふ化場として急速に発展することになる。同年にはアメリカ式の平面飼育種鶏舎(12m×100mの平屋建で5,000羽を収容)を建設、以後森孵卵場の種鶏舎はこの形式を踏襲する。
(2)種鶏ふ卵事業の拡大
1949年森電熱孵化場として創業した森孵化場は、1956年有限会社となり、1962年株式会社に改組(資本金7,000万円)、その後3回の増資を経て、現在の資本金は3億3,600万円となっている。
1968(昭和43)年には、初代森和吉氏に代わって英雄氏が社長に就任、会社は日本のブロイラー産業の発展と共に種鶏ふ卵事業を拡大したが、その概略は次の通りである。(写真1)
(写真1)香川県観音寺市大野原町の(株)森孵卵場本社前で。
(左から森英雄社長、筆者、世俵義通常務、森泰三常務)
1964年:宮崎県に九州工場開設(現南九州支店)
1966年:三重県に中部工場開設(現中部支店)
1967年:福島県に関東工場開設(現関東支店)
1973年:福岡県に福岡工場開設、岩手県に東北工場開設(現東北支店)
1976年:本社工場を分離して四国支店として発足
1978年:大分県に現大分種鶏場開設
1981年:和歌山県に和歌山工場開設、宮城県に宮城工場開設
1982年:岡山県に岡山工場開設(現岡山種鶏場)
1994年:日山農場開設
2003年以降:九州、中部、近畿、東北などに種鶏場およびブロイラー農場を取得、開設
以上のような事業拡大の結果、会社の現状は、支店5カ所(東北、関東、中部、四国、南九州:それぞれふ卵場併設)、工場3カ所(宮城、和歌山、福岡:ふ卵場)、ブロイラー自家(直営)種鶏場は全国に34カ所(岩手2、福島9、和歌山3、岡山3、香川2、福岡1、大分6、宮崎8)、ブロイラー肥育自家(直営)農場19カ所(宮城2、福島5、岐阜1、三重2、和歌山2、大分1、宮崎3、静岡1、香川2)のほか、協力農場3カ所(愛媛2、福島1)、採卵養鶏場1カ所(福岡県・田川事業所:ワクチン製造用受精卵生産種鶏7万5,000羽、赤玉銘柄卵生産採卵鶏5万羽飼育)の合計65カ所の事業所を擁するに至っている。(写真2)
(写真2)(株)森孵卵場の岩手県日形ブロイラー専用種鶏
場(平屋建3棟、二階建1棟の合計5ユニットで種鶏
27,300羽を飼育する。(株)森孵卵場では平屋建を二階建に
改造することにより、種鶏の増羽を推進する)。
合計34カ所の種鶏場の収容能力は75万羽で、現在の種鶏飼育羽数は育成鶏も含めて約65万羽、そのうち産卵中の種鶏羽数は約40万羽で、毎年50万羽の種ひなを導入する。種鶏場で生産された種卵は全量自社のふ卵場(全国8カ所)に入卵し、年間6,500万羽のブロイラー用初生ひなを生産する。この初生ひなのうち約10%は上記19カ所の直営農場と3カ所の協力農場でコマーシャル・ブロイラーとして育成し、それぞれ近接の処理加工場へ出荷する。
森孵卵場では、以上のほかに1955年頃から、国産種鶏麓山増殖センターでロードアイランドレッド、シャモなどの地鶏の改良繁殖にも注力し、年間約250万羽の地鶏用ひなを販売している。
(3)廃業施設の再生利用
ブロイラー産業が成熟期に入ると、国内のインテグレーター、処理場、飼料会社、種鶏ふ卵場などの競争が激化し、また鶏肉の輸入も増加して価格競争が激化し、多くの企業が撤退、縮小、廃業を余儀なくされ、その事業所(種鶏場、ブロイラー農場、ふ卵場など)が閉鎖、売却されることになる。
森孵卵場はこれら廃業施設のうち、有用と思われるものを買い取り、施設をリフォームして再生利用している。既設のふ卵場や種鶏場は新設の場合の煩雑な手続きを要しないし、既存の施設の改修は新設よりも割安であり、短期間で再生利用できるから、経営能力さえあれば極めて有利な事業展開が可能となる。
たとえば、上述の田川事業所(福岡県)は福岡県が炭鉱のボタ山跡地に造成した畜産団地で約53万平方メートルの用地があり、また静岡県のブロイラー農場はもと某商社のブロイラー原種鶏場で、堅固でよく整備された鶏舎がそのまま利用できる。
森孵卵場が現在所有している全国34カ所の種鶏場のうち13カ所は廃業または廃用施設を買収、活用したものであり、ブロイラー生産農場19カ所のうち13カ所は同じく廃業、廃用施設の再生利用である。(写真3)
(写真3)(株)森孵卵場の大分県久住ブロイラー生産農場
(コマーシャル・ブロイラー10万羽を収容し、年間ブロイラ
ー50万羽を生産する)。
(4)種鶏飼育とブロイラー生産の技術革新と人事管理
森孵卵場は、前述のように全国65カ所の事業所を運営しているが、このような事業所の全国的分散は、鶏病対策や自然災害のリスク回避上極めて有利である。その上、森孵卵場は、新しく種鶏ふ卵場を立地する際、近隣に養鶏施設が無い場所を努めて選定している。また、鶏の飼育には「水」が基本的に重要であるとの信念から、各事業所には必ず深井戸を掘って清潔な飲水を確保している。
種鶏場やブロイラー生産農場では必ず2社の配合飼料を使用して飼料価格を安定させると同時に飼料の品質変化が直ちに判定できる体制を整えている。
鶏病に対しては、鶏病予防用ワクチンを的確に使用するなど無薬化に注力し、飼料中に有用微生物を混合給与することにより、悪臭やハエの発生防止に成功している。
鶏ふんは鶏ふんボイラーによる床面給温育すうで極力リサイクルしている。
種鶏やブロイラーの飼育では、特に冬の鶏舎内の換気を充分に行う冬季換気システムを設置、また夏の高温対策として気化冷却を様々な方法で最大限に利用することにより種鶏の生産性の向上に大きな成果を上げており、たとえばコマーシャル・ブロイラーの場合廃業前の企業で育成成績不良のため赤字経営であったブロイラー農場が大巾な黒字に転換できているという。
現在、森孵卵場の従業員数は425名で、そのうち月額社員は94名(主として男性)、日額社員は138名(9割は女性)、パートタイマー193名であるが、現場の責任者には女性を多数登用していると言う。その理由は、会社の方針として、作業は全てマニュアル化し、従業員はこのマニュアル通りに作業することを要求されているが、女性はマニュアルに忠実で好成績であるのに対し、男性は個人的経験による偏向作業で成績不良になりがちだからだと言う。
(5)外食産業の展開
森孵卵場は、長男の英治郎氏がアメリカ留学から帰国後、外食産業への進出を企画し、1987年ケンタッキー・フライド・チキンの店舗展開を開始し、現在、香川県6店、愛媛県6店、徳島県4店、高知県2店の計18点を出店している。(ほかにピザハット2店)。
和食では炭火焼肉酒屋「牛角」6店、居酒屋「土間土間」2店、ごはん家「まいどおおきに食堂」3店、洋食ではカプリチョーザ3店、スイートガーデン5店の合計19店を直営している(いずれも香川、徳島、愛媛の3県内)。
このほか「牛角」のフランチャイズ店舗6店、ごはん家のフランチャイズ店舗10店を傘下に収めて、外食合計55店は株式会社モリフードサービスが経営し、森英治郎氏が社長を勤めている(写真4)
(写真4)(株)モリフードサービス(森孵卵場グループ外食企業)が経営する
“ごはん家”「まいどおおきに食堂」前で。(右:
森英雄社長と左・筆者)
森英雄社長の次男泰三氏(獣医師)は、株式会社森孵卵場の常務取締役として種鶏ふ卵事業を分担している。
森英雄社長は上述諸事業のほか貨物自動車運送事業の株式会社東西運輸、農畜産器機、飼肥料などを取り扱う株式会社エース通商など関連数社も合わせて経営し、これらの関連企業をも合わせた森グループ全体の年間売上高は約100億円に達する。
6 75年の歴史を誇るブロイラー種鶏ふ化場の名門
ー株式会社福田種鶏場ー
(1)福田種鶏場の歴史
岡山市の南郊児島湾干拓地に近い福田(現福富)に本社を置く株式会社福田種鶏場は現社長山上恭宏氏の父幹一(後に茂吉を襲名)氏が、昭和6(1931)年、種鶏1,000羽と2,000卵入ふ卵器2台で創業して、今年75年を迎える。
創業の翌年には600卵入ふ卵器(石油ランプ使用)15台を増設、更に2年後には23,000卵入スミス立体ふ卵機(電熱)3台を、またその3年後(1937年)には同ふ卵機3台を増設し、当時としては大規模な商業的ふ卵場(commercial hatchery)となった。
昭和22(1947)年、火災により上記6台のふ卵機のほか事務所、育すう舎などを全焼したが、わずか17日後にはふ卵舎1棟を完工して35,000卵入ふ卵機6台を設置して営業を再開した。
当時福田種鶏場は300戸以上の農家に種鶏を委託飼育し、昭和24(1949)年にはこれらの種鶏家を組織して岡山県養鶏農業協同組合を設立、それと同時に岡山大学農学部の大倉永治教授(遺伝学)を中心に、病理、繁殖などの専門学者や農林省種畜牧場長、県養鶏試験場長などを委員とする種鶏改良委員会を設置して種鶏の改良を本格化した。
昭和20年代の後半には、当時アメリカで最優秀の種鶏場であったハンソン、ハリウッド、ドライデン各農場から白色レグホーンおよび横斑プリマスロックを、またウィテカー、ハリウッド両農場からニューハンプシャーを大量に輸入した。
昭和31(1956)年には、福田種鶏場の種鶏総羽数は8万数千羽に達し、35,000卵入ふ卵機36台を設置する一大種鶏ふ化場となっている(昭和29年、資本金3,000万円の株式会社に改組)。
(2)田中育種研究所と肉用鶏の育種
昭和32(1957)年には、児島湾干拓地の浦安約7万平方メートルの用地に建設した種鶏場の中に、遺伝学の泰斗、田中義磨博士を迎えて田中育種研究所を設立、主として白色レグホーンの産卵能力の育種改良を推進した。
筆者(当時京都大学大学院在学)は、昭和26年から約10年間、種鶏改良委員会委員として肉用鶏の育種を担当した。
当時筆者が福田種鶏場で改良していたのは、江戸時代に英国船で渡米し、岡山エーコク、香川エーコク、熊本コーチン、土佐九斤などの名称で各地で飼育されていたコーチンの原種の大型鶏、これとシャモの合成種、そしてそれらをニューハンプシャーに交雑した日本で最初のブロイラー専用種であった。
エーコクはオス5〜6キログラム、メス4キログラムの大型肉用種で大卵を多産し、またこれとシャモの合成種(synthetics)はシャモの闘爭性を無くして群交配を可能にした極めて肉質の良い優良新種で、半世紀前にすでに今日の高品質地鶏を実現していた。(写真5)
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(写真5)昭和30年代から40年代のはじめの頃まで(1956〜1969)福田種鶏場の
ブロイラー用初生ひなの生産に使用された鶏種(上左:エーコク、上右エーコクと
シャモの合成種、下:アメリカから直輸入されたニューハンプシャー種)
筆者は昭和33(1958)年にアメリカ留学からの帰途、ハワイで入手した褐色コーニッシュと白色コーニッシュの肉付きと産肉能力が格段に優れていたため、これらの増殖を優先して、エーコクなどの改良を断念したが、今にして思えば浅慮の極みと慙愧(ざんき)に堪えない。
昭和30年代から40年代の前半にかけて、福田種鶏場が販売していた卵用および肉用のコマーシャル初生ひなは次の6種類であった。
・フクダライン109号:白色レグホーンの三系統交配種
・フクダライン三原564号:白色レグホーンと褐色兼用種の交雑種
・フクダライン305号:ニューハンプシャーと褐色兼用種の交雑種
・フクダライン306号:シャモ合成種とニューハンプシャーの交雑種
・フクダライン307号:褐色コーニッシュとニューハンプシャーの交雑種
・フクダライン309号:白色コーニッシュとニューハンプシャーの交雑種
(3)支場、分場の増設と白血病抵抗系統の造成
福田種鶏場は昭和30〜40年代を通じて大きく発展し、岡山市福田の本場、浦安の研究所のほか、茨城県竜ヶ崎市の10万平方メートルの用地に関東支場、岡山市浦安に大橋分場、岡山県長船町に長船分場、岡山県御津町に野々口分場を建設した。昭和46(1971)年には資本金を1億円に増資している。
種鶏改良委員会の病理担当委員であった岡山大学の堀慧教授および鳥海助教授は、当時日本の養鶏界で被害の大きかった鶏白血病の研究に取り組み、グロルサンファレンによるBSP反応を鶏に応用して確実、簡易に肝臓障害の早期診断を行う方法を発見し、昭和38(1963)年これを学界および養鶏界に発表して鶏白血病の防止と抗病系統の造成に大きく貢献した。
昭和35(1960)年には、種鶏ふ卵場としては全国で最初の保税上屋承認飼料工場を建設し、自家種鶏20万羽用の独自配合設計による種鶏用配合飼料の製造を開始している。
(4)外国採卵種鶏の導入と肉用原種鶏場の設立
昭和30年代の終わり頃になると、集団遺伝学を応用して高度に改良した新しいタイプの採卵鶏(系統交配種や近交系交配種)が世界の養鶏業界を席けんし、大規模化する採卵養鶏場やブロイラー農場に斉一で強健な実用鶏を大量に供給できる欧米の育種会社が全世界に進出した。
福田種鶏場は、キンバー、ハバード、ハイラインなどの著名な育種会社と提携して、これらの新しいタイプの採卵鶏やブロイラー専用種を積極的に導入した。
また、ふ卵機もフランス製ベコト社の10万卵入大型ふ卵機に入れ替え、従来の研究所や諸分場の近辺が住宅地化してきたため、岡山県赤磐郡赤坂町に清淨な用地33万平方メートルを確保して順次新設移転した(昭和45(1970)年以降)。
この新設種鶏場(赤坂中央種鶏場:写真6)には、種鶏舎合計51棟のほか、120平方メートルの大型貯卵庫を設置し、種鶏12万羽を飼育する。
(写真6)福田種鶏場の赤坂中央種鶏場(岡山県赤磐市坂辺)
約33万平方メートルの用地に51棟の種鶏舎を分散建設
し、12万羽のブロイラー用種鶏を飼養する。
赤坂中央種鶏場には全国で最初にオランダ製のコンピュータ管理による自動体重測定機を導入して、種鶏管理の計数化に成功している。
なお本社のふ卵施設は、チックマスターふ卵機10セットなどを新設し、現在の総入能力は140万卵となり、年間1,600万羽のブロイラー用初生ひなを販売している。なお昭和57(1982)年には採卵用初生ひなの販売からは完全に撤退した。
昭和42(1967)年、山上茂吉氏は丸紅飯田(株)との共同出資により、岡山県和気郡和気町に(株)日本チャンキーを設立して社長に就任し、イギリスの育種会社ロス(Ross)社のブロイラー専用種(日本での商品名チャンキー)の原種鶏(grand parent stock)を導入し、種ひな(parent stock)の生産販売を開始した。(写真7)
(写真7)1967年福田種鶏場が総合商社丸紅(株)と共同
で設立したイギリス・ロス社のチャンキー原種鶏場(岡山
県和気郡和気町)の現況。チャンキーのペアレント・スト
ック(種ひな)年間240万羽を生産する。この原種鶏場の
ほか栃木県にも原種鶏場(種ひな150万羽生産)がある。
山上茂吉氏は後に(株)日本チャンキーの所有全株を(株)丸紅に譲渡して社長を退いたが、(株)丸紅との事業連携関係はその後も今日に至るまで緊密に継続している。
(5)ブロイラー用種鶏の飼育技術の革新
ブロイラー用の種鶏はオス、メスとも精密な給飼管理(飼料の制限)と光線管理を行わないと良好な種卵生産や高い受精率は得られない。
福田種鶏場の二代目の社長山上恭宏氏は、慶應義塾大学(経営学)卒業後、東京大学(家畜解剖学)、ミズーリ大学大学院(家禽学)での学究およびその後度重なる欧米育種会社での研修、視察によって困難なブロイラー用種鶏の飼育管理技術をマスターし、イギリス・ロス社のブロイラー専用種チャンキー種鶏の飼育技術の革新に傾注した。
昭和54(1979)年には種鶏舎に細霧冷房(気化冷却)システムを設備し、また平成元(1989)年にはコンピュータによるふ卵機内の温度管理システムを完成させ平成11(1999)年にはオランダからコンピュータ管理による種鶏の自動体重測定システムを導入、平成14(2002)年にはオランダVDL社のコンピュータ・システムを完備したウィンドウレス種鶏舎(1棟5,000羽収容)2棟を新設し、さらにオランダ王立家きん研究所との技術交流を開始するなど種鶏管理の技術革新を推進している。
このような技術革新の結果、ブロイラー用種鶏の飼育成績が向上し、その成果と功績によって、福田種鶏場は日本チャンキー協会(チャンキー種を取り扱う種鶏ふ化場および関係各社の全国組織)から11回にわたって「功労賞」および「優秀賞」「最優秀賞」を受賞している。
(6)種鶏ふ卵事業の継承
以上、日本有数の種鶏ふ化場である福田種鶏場を一代で築き上げた初代山上茂吉社長の足跡を追ったが、ここに見られるように、山上氏の種鶏ふ化事業の展開は常に進取、積極しかも壮大でまさに稀有の事業家と呼ぶに相応しい。またその種鶏改良(育種)事業においては、日本の起業家には珍しく、学者、専門家を信任、優遇した。
山上氏の事業家としての先見がいかに的確であったかは、ブロイラーの年間生産羽数が1億羽(現在の6分の1)を超えたばかりの1967年に原種鶏場を設立したイギリスのロス社(現Aviagen,Ltd.)のブロイラー専用種(チャンキー)が、今や全世界のブロイラーの過半を制し、日本のブロイラー生産の75%を占めている現状を見れば自明であろう。
山上茂吉氏は昭和61(1986)年に78才で逝去されたが、長男恭宏氏がその後を継いで社長に就任、日本チャンキー協会の会長を5期務めたほか、関係業界の役員を歴任するなど種鶏ふ卵業界の重鎮として活躍され、またその長子祐一郎氏は(株)福田種鶏場の取締役営業部長として次の世代の事業継承を嘱望されている。(写真8)
(写真8)(株)福田種鶏場・本社事務所前で。左から山上
恭宏社長、筆者、山上祐一郎取締役営業部長。
あとがき
筆者は、かつて、自ら種鶏ふ卵場を経営した経験から、あらゆる産業、業種の中で、これほど困難でリスクの大きい事業はないと、かねてから認識している。
一般の工業製品と違って、人を使って動物を飼い、丈夫に育てるだけでも難事であるのに、その動物を大群飼育して受精卵を産ませ、商品寿命が1日しかない初生雛をふ化して客先まで送り届けるという面倒でリスクの大きい仕事を長年にわたって数世代も継承、発展させて鶏肉産業の基礎を築いた、種鶏ふ卵業の中核となっているファミリー企業に敬意を表し、賞揚せざるを得ない。
困難な経営環境のかなで、これらのファミリー企業が、これからも永続して鶏肉産業を繁栄させて欲しいと切に祈念したい。
なお、この報告の作成に際して、森、山上両氏から貴重な資料および写真を提供して頂いた。ここに厚く御礼申し上げる。
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