◎今月の話題



酪農・乳業のさらなる合理化とコスト削減に向けて

東京大学大学院農学生命科学研究科
教授 鈴木 宣弘

迫りくる貿易自由化圧力

 去る4月23日から、ニュージーランドと並んで世界的に最も酪農・乳業の競争力がある豪州とのEPA(経済連携協定)交渉が開始される一方、中断していたWTO(世界貿易機関)のドーハ・ラウンド交渉が再開し、妥結点を探る主要国間の水面下の交渉が活発に展開されている。わが国の酪農・乳業は、いま、このように、WTOとEPAの両面から迫りくる大きな国際化の波に立ち向かわなければならない状況にある。

 加えて、国内的にも、経済財政諮問会議から農産物貿易自由化の工程表を示すべしという厳しい要求が出されている。貿易自由化を含めて、規制緩和さえすれば、すべてがうまくいくというのは幻想である。土地賦存条件に大きく依存する食料生産には、努力だけでは埋められない格差が残る。それを考慮せずに貿易自由化を進めていけば、日本の食料生産は競争力が備わる前に壊滅的な打撃を受け、食料自給率は限りなくゼロに近づいていくであろう。

 食料貿易の自由化は、産業界の利益や安い農産物で消費者が得る利益(狭義の経済効率)だけで判断するのではなく、土地賦存条件の格差は埋められないという認識を踏まえ、極端な食料自給率の低下による国家安全保障の問題、窒素過剰による国土環境や人々の健康への悪影響などを総合的に勘案して、バランスのとれた適切かつ現実的な水準を検討すべき問題である。いまこそ、日本に農業が存在する意味を、産業界や消費者も含めて、国民全体で議論しなければ、わが国の将来に禍根を残すことになりかねない。

 もちろん、牛乳・乳製品は、コメと並んでわが国の最重要の基幹品目に位置付けられており、国民の理解を得つつ、国内の酪農・乳業への影響を最小限に食い止めることに全力を傾注する必要があることは言うまでもない。


WTOにおいて回避すべき事態

 ことの重大性を認識して備えるには、回避すべき最悪の事態を認識しておくほうがよい。今回のWTO交渉における最悪のケースは、米国提案の75%の上限関税が導入され、これが重要品目にも適用された場合であり、この場合は、生乳換算で40円程度の乳製品と競争する必要が生じ、わが国の加工原料乳価が40円まで下がる可能性がある。

 これに、現行の補給金(ゲタ)約10円が上乗せされて50円、さらに輸送費見合いの約20円程度を足すと都府県の飲用乳価になるという構造が維持されるとしたら、飲用乳価は70円程度になるということである。つまり、現在の

 60(加工原料乳価)+10(ゲタ)+20(輸送費)=90(飲用乳価)

という算式の代わりに、

 40(加工原料乳価)+10(ゲタ)+20(輸送費)=70(飲用乳価)

が成立することになる。

 なお、わが国と比較的立場が近いとされるEUでさえ、100%の上限関税を提案しているため、上限関税の議論は、予想以上に低い水準での攻防となり、いずれにしても、仮に重要品目にも適用されれば、わが国の乳製品への影響は避けられない状況であることに留意しなくてはならない。

 なお、現在は、国際乳製品市況が高騰しているので、比較的低い関税でも影響は小さい状況にあるが、これが今後も続くと考えるのは危険である。

 

例外なき日豪EPAのもたらすもの

 さらに深刻なのは、日豪EPAである。もし、豪州との交渉で、例外が認められず、仮にも乳製品がゼロ関税になったら、約20〜30円の加工原料乳価との競争になってしまう。そうなると、国内の加工向けは実質的に消滅し、生乳生産はほぼ飲用向けのみの500万トン弱に減少してしまうであろうから、上式のような加工向けと飲用向けとの関係式はもはや成立せず、飲用乳のみの市場で、乳価が形成されることになろう。

 日豪EPAによる損失額の試算は、農林水産省や北海道庁などから出されているが、重要品目の中で、酪農・乳業関連の損失が最大と見込まれている。農林水産省によれば、国内生乳生産の44%が失われ、その損失額は2,900億円、北海道庁によれば、乳業や地域への波及的な影響も考慮すると、北海道における酪農関連の損失額は、実に8,657億円にも及ぶと試算されている。ここで、留意いただきたいのは、北海道の酪農家は、このような損失を回避するために、都府県への飲用向け販売に活路を見いださねばならなくなるから、実際には、このような大きな損失が北海道に発生するのではなく、都府県の酪農地帯で発生することになる可能性があるということである。

 

目の離せない中国の動向

 実は、飲用乳市場も安泰とはいえない。近隣の中国では、生乳の農家受取価格は20円程度で、近年、一年に400万トン、日本の北海道の生産量分ぐらいが増加するという、驚異的な増産が続いており、近い将来輸出余力を持つ可能性がある。そうすると、衛生水準がクリアされれば、生乳(未処理乳)は、21.3%の関税さえ払えば、いまでも輸入可能なのであるから、輸送費を足しても30円強の飲用乳価と競争できるかという話になる。

 

わが国酪農・乳業の合理化努力は十分か

 こうした事態を回避するための断固たる交渉と関連施策の充実はもちろんであるが、だからといって日本の酪農・乳業界が安穏としていられる状況でないことは明らかである。そう考えたとき、わが国の酪農・乳業の合理化努力は、十分進んでいるといえるだろうか。

 わが国の牛乳・乳製品価格の諸外国との格差の原因は、原料乳価の高さと製造コストの高さの二面がある。酪農については、生乳生産コストや乳価水準は、まだ欧米とはかなり格差があるが、飼養頭数規模でみれば、順調な拡大が進み、EU水準を凌駕(りょうが)するまでになったことは評価されよう。

 一方、乳業については、乳業再編・合理化事業が推進されてはいるが、農林水産省の資料によると、1982年から2002年にかけて、欧米の主要国が、軒並み、乳業工場数を半減させたのに対して、わが国は3割の減少にとどまっており、一工場平均の生乳処理量の格差は、相対的には広がってしまい、小規模工場のシェアの高さは、諸外国に対して、より際立ってきているのである。十分なデータはないが、1995年に4倍前後であった製造コストの格差もむしろ拡大していると考えられる。

 小規模工場が多いため、HACCPの取得率も低い。諸外国に比較して安全性にコストをかけているから製造コストが割高になるとの指摘もあるが、全体としては、わが国の乳業工場の衛生水準が諸外国より高いとはいえず、むしろ逆である。

 

消費者に支持される酪農・乳業に

 もちろん、いくら規模拡大してコストダウンしても、日本の酪農・乳業が、それだけで国際競争に勝てる見通しはない。従って、われわれが目指すべきは、環境にも牛にも人にも優しい環境保全・循環型の酪農・乳業経営に徹して、消費者に自然・安全・本物の牛乳を届けるという食にかかわる人間の基本的な使命に立ち返ることであろう。それによって、まず地域の、そして日本の消費者と密接に結びつくことが不可欠である。こういう方向性は、仮に国際化による安い乳価との競争の時代となっても国産を差別化して生き残る道を提供し、さらには、日本からも、安全・安心・高品質の牛乳・乳製品の新たな販路をアジアに見いだすことにもつながる。

 EUの事情は、差別化の可能性を検討する意味でも参考になる。例えば、イギリス酪農とイタリア(特に南部)の酪農には大きな生産性格差があるが、EUの市場統合にもかかわらず、各国の多様な酪農・乳業は生き残っている。ナポリの牛乳はリットル約200円で日本より高いくらいである。スローフード発祥の地のイタリアでは、少々高くても、地元の味を誇りにし、消費者と生産者が一体となって、自分たちの地元の食文化を守っている。こういう関係を生み出さなくてはならない。

 そういう点では、小規模ではダメだということではなくて、むしろ小規模で、こだわりのある高品質な牛乳やチーズをブランド化する試みが、地域の生産者と消費者を結びつける上で有効な場合も多いであろう。

 そのような方向性も非常に重要であるから、一概にはいえないが、だからといって、コスト削減努力が必要ないということにはならない。ベースになる部分では、最大限の合理化努力が必要であろう。国内的にも、経済財政諮問会議などで全面的な農産物関税撤廃というような厳しい議論が出てくる背景には、日本の農業や関連産業は十分経営努力をしていないという批判があり、このことは、真摯(しんし)に受け止めなければならない。極論を排除するためには、日本の酪農家も乳業も、ある程度の国際化の波は避けられないことを一層認識し、さらに経営センスを磨き、可能な限りのコスト削減努力、販売努力を強化することが必要である。特に、乳業工場の欧米との生産性格差はむしろ拡大してしまっている事実は重く受け止めざるを得ない。ただし、規模拡大や経済効率の追求が、環境にも人にも動物にも優しく、消費者に自然・安全・本物の品質を届けるという本来の使命を果たしつつ進められなければ、これからは生き残れない、つまり、本当の意味での経済効率を追求したことにはならない、ということも忘れてはならない。



すずき のぶひろ

プロフィール

1958年三重県生まれ。
東京大学農学部農業経済学科卒業後、農林水産省入省。経済局国際企画課、農業総合研究所研究交流科長、九州大学教授を経て2006年9月より現職。夏期(7〜8月)は米国コーネル大学客員教授も務める。主著に、『FTAと日本の食料・農業』(筑波書房、2004年)、『農のミッション−WTOを越えて』(全国農業会議所、2006年)。


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