専門調査レポート
目標は「乳牛一頭一家族」
北海道大学大学院農学研究院 教授 飯澤 理一郎 |
1.はじめに前年比187戸減の7,713戸。北海道農政部「北海道における酪農家の離脱状況」が伝える昨年2月1日現在の酪農家戸数である。勢いがやや鈍ってきたとは言え、離農の発生はいまだ止むことなく引き続き、その陰で規模拡大と生産性向上の動きがジワジワと進行していることを、それは物語っていよう。こうした中で、一時、大きな話題を呼んだ超大型経営=メガファームも、今や、さして珍しい存在でなくなりつつあるのである。生産性の向上という一点から見れば、それはそれで結構なことかも知れない。しかし、そこには大きな落とし穴、一層の過疎化の進行と地域社会の衰退、生活インフラなどの後退と快適な生活諸条件の崩壊などが待ちかまえているのも、紛れのない事実である。いたずらに面積的な、あるいは飼養頭数的な規模拡大に走ることなく、「経営の規模拡大」を実現する道はないのか。今回、紹介するノースプレインファームは、まさにその道を必死になって切り開き、大きな成果を挙げてきた先駆的・典型的な酪農経営と言える。ノースプレインファームは多頭化をほどほどにとどめながら、経営としての規模拡大を直売や加工、レストランなど、関連分野に進出するという多角化の方向に求めてきた。そして、それは過疎に悩む地域に大きな雇用の場を生み出すという副次的な効果ももたらしているのである。 2.4億円強を売上げ、大きな雇用の場を生み出す“酪農家”ノースプレインファームは北海道の東北部、オホーツク海に面した人口4,500人余りの興部町(おこっぺちょう)に、その活動拠点を置く。札幌からおおよそ300キロメートル。決して交通至便とは言えない、人口も減少気味の、過疎化に悩む農業と漁業の町である。町の8割を山林・原野が占め、農用地は2割、7,000ヘクタール強ほどしかない。しかも、農用地の多くは強い酸性重粘土土壌によって占められ、また、気候条件も年間を通じて冷涼と厳しく、決して農業的条件に恵まれているとは言い難い。こうした条件の下、興部町農業は酪農を中心に、というよりも酪農に加速度的に傾斜しながら展開し、今や、平均耕地面積65ヘクタール、飼養頭数110頭余を誇る一大大規模専業的酪農地帯を形成してきているのである。
さて、ノースプレインファームは今を去る20年ほど前、1988年に、ここ興部町で産声を上げた。牛乳や乳製品、肉製品、パン、菓子などを製造・販売し、また、レストラン事業を営む資本金4,500万円の株式会社である(図1参照)。設立者は町内で酪農を営む大黒宏(だいこく ひろし)氏で、2006年度の売上高は4億4,000万円にも達している。売上高がすごいばかりではない。ノースプレインファームは、製造部門で45名、営業・宅配・営業事務部門で9名、レストラン部門で8名、総務部門で3名の計65名の雇用を生み出しているのである。
もちろん、酪農(牧場)部門は大黒氏の個人名義で、30ヘクタールの借地を含む90ヘクタールの草地と50ヘクタールの山林に、51頭の搾乳牛、46頭の育成牛、60頭の肉用育成牛が飼育されている。「大地も草も牛も人もみんな健康」にをモットーに放牧を重視しているため、一頭当たり乳量は6,000キログラム程度と少なく、年間出荷乳量も300トン程度と少な目となっている。出荷乳量のすべてがホクレンから買い戻され、ノースプレインファームのプラントや加工場で処理されていることは言うまでもない。
興部町という小さな過疎に悩む町に、4億円を超える売上高を誇る“酪農家”が存在すること自体、驚愕すべきことであるが、そればかりではなく、彼はまた、町内に50名を超える貴重な雇用の場をも生み出し、過疎化の歯止め役をも果たしているのである。 3.“攻めの姿勢”に徹しつつも、決して地元を忘れずに!1)ミルクプラントを皮切りに次々に事業を拡張ノースプレインファームの設立者である大黒宏氏は、酪農家の後継者として1956年、興部町に生を受けた。 1980年、酪農学園大学を卒業したのち、半年間、見聞を広めようとニュージーランドやオーストラリアに旅に出て、その後、実家の跡を継いで就農した。 彼は、もともと際限のない規模拡大路線に疑問を抱き、また、“酪農家は搾るだけ”という分業態勢にも大いなる疑念を抱いていた。その疑問・疑念はニュージーランドやオーストラリアを旅することによって、更に強まった。幾ら規模拡大したところで、ニュージーランドやオーストラリアに勝ち目はないし、また、ただ搾るだけでは面白みもない、と強く感じたからである。いたずらに規模拡大に走らずに、すなわち比較的小規模な飼養頭数のままでも経営を成り立たせ、発展させる道はないのか。様々に思案を巡らせた挙げ句にたどり着いたのは、“「生乳」ではなく「牛乳」を販売する”ということであった。 今では珍しくもなくなったが、その当時、ミルクプラントを設置し、牛乳を販売しようなどと考える酪農家は皆無に近かったと言ってよい。もちろん、興部町には誰一人としていなかった。“夢物語だといさめる人”や時には“反感を表す人”さえいたが、大黒氏は自らの考えを決して曲げることはなかった。ついに1988年、夢叶って乳処理業の免許を取得。ミルクプラントを建設するとともに、資本金500万円のノースプレインファーム株式会社を設立し、牛乳製造に乗り出すことになった。 設立当時の客はもちろん町内の人で、早速、宅配を開始したが、当初の注文はわずか27本と惨たんたるありさまであった。大黒氏は購入のお願いをするために、町内の一軒一軒を訪ね歩いた。こうした熱意と牛乳の品質の良さが認められ、購入者は次第に増えていき、ミルクプラント設置の数年後には何とか目処が立つようになった。 その後の経営拡大、更なる多角化の動きは急速であった。新たに、チーズ・バターなどの乳製品が加わり、更にハンバーグなどの肉製品、菓子・パンなどもノースプレインファームの製造品目の仲間入りをしていった。また、1991年に直売所兼レストラン「ミルクホール」を牧場の入り口に開設し、販売にも力を入れていった。こうした努力もあって、売上高は1992年の1億円前後から1996年の2億円台、1999年の3億円台へと伸びていった(図2参照)。そして、売上高の伸びに陰りの見られた2005年には京都大丸に自社製品の直売店を、翌2006年には札幌駅構内に直売店を開設し、売上高を再び上昇軌道に乗せることに成功し、今や4.5億円ほどを売り上げるまでになってきているのである。
今、大ヒット中なのは、昨年発売した生キャラメルである。原料の生クリームは雪印乳業興部工場産、砂糖は北海道糖業北見工場のビート糖、水飴は北見市の永田製飴の産、蜂蜜は網走管内遠軽町の新海養蜂場の産と、徹底して地元・網走管内産原料にこだわった“こだわりの一品”と言って良い。5グラムのキャラメル10個入りで777円と値が張るにもかかわらず、生産が追いつかず、販売エリアを北海道に限定せざるを得ないほどであるという。われわれがノースプレインファームを訪れたとき、11月の完成を目指した新たなキャラメル工場の建設工事が急ピッチで進められていた。 このように、大黒氏は決して“守りの姿勢”に陥ることはなく、絶えず“攻めの姿勢”に徹しながら、事態を前進的に打開してきたからこそ、大きな飛躍と成功を勝ち取ることが出来たと言うことができよう。 2)販路開拓の決め手は自ら使うこと−レストラン事業への進出 ところで、加工事業を開始したとき、絶えず問題になるのは販路の開拓である。大消費地から遠く離れた興部町で加工事業を始めた大黒氏も絶えず、その問題に悩まされ続けてきたと言ってよい。 加工事業を始めた当初、「良い食品を作る会」のネットワークを通じて販売しようと考えていた。「良い食品を作る会」は、1975年に設立された会員150余名を擁する良心的な食品製造業者とその商品を扱う販売業者の集まりで、全国的な販売ネットワークを形成・保持していた。しかし、その会も1993年に至り、活動を休止、解散してしまった。 当てが外れてしまった大黒氏であるが、そこで引き下がることはなかった。「それが、駄目なら自分で使う」とばかりに、自社製品をふんだんに使った料理を提供するレストラン事業に進出することにしたのである。その発端は1995年に旭川市郊外に開店した「ノースプレインファーム・エスペリオ」である。開店に当たり、直売所兼レストラン「ミルクホール」の経験が大いに役に立ったことは言うまでもない。
「エスペリオ」の目玉は、もちろん、大黒牧場で牧草を中心に育てた牛肉(レッドミート)やチーズなどの乳製品をふんだんに使った料理。ファームレストランが珍しかったせいもあってか、しばらくは営業も順調であった。しかし、2001年のBSE騒動を契機に売り上げは激減し、一時は閉店も考えざるを得ないほどであったと言う。しかし、給餌方法や飼育方法からして“うちの肉牛は絶対大丈夫”との信念の下に、2カ月ほどの休業ののちに新装開店。そこに吹いたのが旭山動物園の一大ブームの風である。偶然にも「エスペリオ」は旭川市街地から旭山動物園に通じる街道沿いに立地する。動物園の行き帰りに立ち寄る客も次第に増え、今では最盛期の8月には1,200万円もの売り上げがあると言う。一人1,200円で1万人(一日当たり320人ほど)、2,000円で6千人(同190人強)、ものすごい客の入り込みと言って良い。 紆余(うよ)曲折があったにせよ、ノースプレインファームの諸製品の確かな需要先を自らの手で確保しているのである。また、困難にもめげずに、初志を貫き通せた裏には、大黒牧場の産物の「品質」に対する限りない自信、ノースプレインファームの製品の「品質」に対する確かな誇りがしっかりと横たわっていたと感じるのは、決してわれわれだけではあるまい。
3)学校給食に本物の牛乳を納入 ノースプレインファームの活動の特徴の一つとして、町内の学校給食への牛乳納入を挙げなければならない。ノースプレインファームの活動が「大地も草も牛も人もみんな健康」をモットーに、町内向けの牛乳から始まったから、それも当然と言えば当然かも知れない。また、“攻めの姿勢”に徹し、売上高を急速に伸ばし、販売エリアも全道・全国へと広げる中でも、決して原点=地元を忘れない姿勢の表れと見ることも出来よう。 大黒氏が幼少の頃、学校給食で飲んでいた牛乳は遠路はるばる札幌の工場から運ばれてくるものであった。しかも、お世辞にも美味しいと評せるものではなかった。多くの酪農家がおり、膨大な生乳を生産しているにもかかわらず、何故、地元の牛乳を出せないのか。大黒氏が常日頃から感じていた疑問であった。大黒氏は早速、学校関係者や保護者などへの働きかけを開始した。「子供たちに地元の牛乳を飲ませたい」という訴えと熱心な活動が実ってか、学校関係者や保護者の間に、次第に賛同する声が高まり、ついに北海道をも動かすこととなった。1995年、ノースプレインファームは晴れて入札への参加を認められ、同年から納入が開始されることとなったのである。 納入はしてみたものの、ノースプレインファームの牛乳が子供達から、直ちに両手を挙げて歓迎されたわけではなかった。ホモジナイズ(均質化)していない牛乳は、これまでの大手メーカーのものとは違い、しばらくすると脂肪分が表面に浮き上がり、クリームの層を作ってしまう。大手メーカーの牛乳に慣れてしまった子供達は、ふたの裏面についたクリームの層に面食らい、当初は多くの飲み残しが発生したと言う。「子供達の舌がこれほどまで、本物の味から離れてしまったのか」と大黒氏を大いに嘆かせたそうであるが、その嘆きもつかの間、ホモジナイズしない牛乳にすぐに慣れ、飲み残しも激減したと言う。 今、食育の重要性が叫ばれ「地産地消」運動などが推進されているが、それらの重要性、食習慣の形成の重要性を示す格好の事例と言ってよい。 4.仲間の輪を広げながら−地域からの生乳購入と「協力店」とところで、ノースプレインファームは一人で“孤軍奮闘”的に展開してきたわけではない。その一つとして、近隣の酪農家からの生乳の購入−もちろんホクレンを通してであるが−を挙げることが出来る。牛乳・乳製品などの製造量が増えるにつれて、大黒牧場だけの生乳生産では間に合わなくなってきた。そこで、旧来から付き合いの深かった河原牧場から生乳を購入することにし、購入量は徐々に増え、10年を経過した現在、150トンの取引となっている。大黒牧場の生産量は300トン程であったから、実にそれの半分に相当する量である。取引価格は非遺伝子組み換えの飼料を使うことを条件に、キログラム当たり5円のプレミアムを付けている。特段、5円に根拠はないとされるが、乳価低迷の折、河原牧場にとっては大きいと言える。そこには、経営の多角的展開が、地域の乳価を大きくアップさせる可能性を持つことが萌芽的にではあれ、示されていると言えるのではないだろうか。 二つは、「協力店」というシステムを取り入れていることである。「協力店」とはノースプレインファームの「大地も草も牛も人もみんな健康」などの考え方やコンセプトを共有する店のことである。もちろん、資本関係はなく、独立採算であり、ノースプレインファームから食材や製品の供給を受け、調理しあるいは販売を行っている。現在、協力店は旭川市の「ノースプレインファーム・タギージョ」と横浜市の「ノースプレインファーム緑園」、占冠村の「ミルクキッチンふらいぱん」、名寄市の「ファーマーズカフェ」の都合4店である。その一つ、「タギージョ」との関係を紹介しておけば、そもそものきっかけは、タギージョのマスターがノースプレインファームのソフトクリームの味に一目惚れし、飲食店を開店するに当たり、ソフトクリームを卸してくれるように依頼したことにあった。いろいろな話をする中で、大黒氏の理念やノースプレインファームのコンセプトに賛同し、「ミルクホール」(興部町の直営レストラン)で1カ月の研修を受けたのちに、晴れて「協力店」として1998年、開店したのである。なお、「タギージョ」とはエスペラント語で「夜明け前」を意味する言葉だそうである。その他の協力店も事情は似ているとのことであり、そこに“大黒フアン”あるいは“ノースプレインファーム・フアン”の確かな広がりを感じとれるのである。
5.おわりに耕地を広げ、頭数を増やすという外延的な規模拡大路線には際限がない。しかも、その末路に待っているものは、過疎化と地域社会の衰退である。こう考えた大黒氏は全く逆の道を歩んできた。それは、外延的規模拡大ではなく、加工や直売、レストランなど関連部門への進出を果たすことによって、いわば「内包的な規模拡大」を実現する道である。その道を歩み始めて20年ほど、ノースプレインファームは4億円を超える売上高に達し、地域に50名を超える雇用の場を生み出してきている。また、萌芽的ではあれ、地域内に新たな生乳市場・取引の場を形成し、また、多くの賛同者(「協力店」など)を生み出してきている。こうした貴重な成果は、外延的な規模拡大路線では決して生まれてこなかったと言っても過言ではない。大黒氏の夢・目標は「乳牛一頭一家族」だそうである。その含意は、一頭の乳牛で一家族を養うに足る収入を上げることである。それは不可能なことではない、と彼は言う。1ヘクタールの草地に一頭の乳牛を飼う。この牛から5,000キログラムの生乳を搾り、500キログラムのチーズを作る。このチーズを100グラム当たり1,000円(高級輸入チーズはこのぐらいの値段)で売れば500万円の収入となる。そうすれば一家族を養っていける勘定となると、彼は試算するのである。確かに、大黒牧場・ノースプレインファームは97頭(搾乳51頭、育成46頭)の乳牛と60頭の肉用育成牛の157頭で4.5億円ほどの売り上げを上げており、牛一頭当たりに直し替えると300万円弱となるから、まんざら机上の空論と片づけるわけにはいかない。むしろ、確かに大黒氏は「乳牛一頭一家族」に向かって着実に歩を進めていると言えるかも知れない。 北海道の酪農地帯の多くが過疎化に悩み続けている中にあって、大黒氏のような実践はまさにその救世主になる可能性も高い。また、日豪FTAやWTO交渉の進行など、ますますの市場開放が迫られそうな情勢の下で、原料生産だけにとどまるのではなく製品を生産し、消費者のもとに届けるという農業者の実践は極めて貴重であり、食料輸入の“防波堤”になっていく可能性も高い。大黒牧場・ノースプレインファームの発展と加工・販売などに手がける酪農家がますます多く生まれてくることを願って止まない。
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