風土産業をめざして |
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ノースプレインファーム株式会社 代表取締役 大黒 宏 |
私が「畜産の情報」を愛読させていただくことになったのは20年以上も前になる。農林水産省にいらした田原高文氏の紹介によるものだった。地方にいながら国内外の情報をタイムリーに得られる手段として「畜産の情報」は大変ありがたい貴重な存在である。 さて、私が今いるのはオホーツク海沿岸の辺鄙な村、興部町。日本一の田舎はどこかと尋ねたら日本人の90%以上の人がこの周辺の寒村をイメージすることが多いのではないだろうか。 当町に和人が最初に開拓の鍬を入れたのが、1898年と聞く。そして約50年後の1950年、農家の数は700戸を越える。しかし、1953年から5ヵ年に亘り続いた冷害凶作から一気に農家戸数が減ることになった。そして、畑作から、冷害の少ない酪農への転換が始まった。 私が酪農に従事し始めた1980年には農家は約270戸、当時行政も地域の農協も誰もが規模拡大が生き残る道だと疑わなかった時代であった。そして現在の農家戸数は79戸である。 私が農業を親から引き継いだ時、政治家や経済界の方々は、これからの農業は大規模化により海外との競争にいかに打ち勝っていくかの大合唱であった。私はいくら規模拡大が進んでも、この国の農業は土地条件の差は歴然、いかにその地域に合った農業を考えるかを悩み続けていた。そんな時、「農的小日本主義の勧め」(篠原孝著)に出会った。この中で篠原氏は、農業を「規模よりも日本に存在するリサイクル資源を有効に活用する農業(工業が枯渇資源に頼っているのに対し、農業は水、土、森、草、太陽の光といった自然の恵みを受けて、永遠にリサイクルを続けるべき産業である。)」と位置づけていた。
江戸300年の間に作り出された農村をベースにした価値体系や行動規範の尊重といった歴史観に基づく農業・農村のあり方を読ませていただいた時、「小さな農家がたくさんある農業を目指そう」と自分の目指す農業の形が明確なものになった。
当社は今年で丸20年、その理念として「農的不易流行」を掲げている。もともと不易流行とは、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で歌枕を訪ねるうちに体得したといわれる。つまり、常に変化して新しく(流行)、しかし本質は決して変わらない(不易)のが風雅のまことだと確信したことから来ている。
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