シドニー駐在員事務所 杉若 知子、玉井 明雄
【要約】
豪州全体の生乳生産量は、2000年の酪農乳業制度改革以降、度重なる干ばつに見舞われたことなども影響し、減少傾向にある。一方、タスマニア州は、加工仕向けが大半を占め、他州に比べ安い乳価にも関わらず、制度改革後も増加基調にある。この要因としては、乳価が制度改革前より高値となっており、生産意欲が刺激されたこと、牧草主体の低コスト生産により本来競争力があったことなどが挙げられる。
1.はじめにタスマニア(TAS)州の生乳生産は、豪州全体の生産がここ10年ほど減少傾向にあるのに対し、増加基調にあり、今後数年で、豪州の生乳生産の1割を担うまで拡大する勢いがあるとみられている。その背景および今後の見通しなどについて、酪農家、乳製品生産者、Dairy Tas【DA(デイリー・オーストラリア)に準ずるTAS州の機関】、研究機関、州政府など酪農乳業関係者からの聞き取りを含め報告する。
2.タスマニア州の酪農状況(1)州の農業粗生産額の1/4を占める基幹産業2008/09年度(7〜6月)の酪農生産額は、州における農業粗生産額11億6100万豪ドル(940億4100万円:1豪ドル=81円)の1/4を占め、牛肉(1億7000万豪ドル(137億7000万円))を上回る2億9200万豪ドル(236億5200万円)と推計されている。(豪州全体の農業粗生産額418億4900万豪ドル(3兆3897億6900万円)、うち酪農は10%程度を占め39億8800万豪ドル(3230億2800万円)、牛肉は約18%の74億5200万豪ドル(6036億1200万円)) 酪農家戸数、乳牛飼養頭数、生乳生産量についてみると、約440戸の酪農家が、14万頭の乳牛を飼養し、67万キロリットルの生乳を生産している。また、酪農家約440戸における雇用者数は、およそ1,700〜1,900人程度であり、TAS州農業人口の1割を占める。さらに、乳製品加工施設での雇用者800人を合わせると、酪農乳業従事者は2,500〜2,700人と、同州の総雇用者数23万人の1%程度を担っていることになる。
(2)酪農乳業制度改革以降、乳価が上昇 豪州の人口はおよそ2200万人、うちTAS州は50万人程度であり、同州の酪農の特徴として、生産された生乳の90%以上が加工用(うち7割は輸出向け)となり、最大の生産州であるビクトリア(VIC)州同様、加工仕向け割合が高いことが挙げられる。このため、2000年の酪農乳業制度改革により、従来飲用と加工用に分かれていた乳価が一本化された際、加工用が主体のTAS州の乳価は上昇し、生乳増産につながったといえる。
同じ加工用が主体であるVIC州の生乳生産が伸び悩む一方、TAS州は成長を続けている。その理由として、VIC州は、干ばつやかんがい用水の利用制限等の影響を大きく受けたのに対し、TAS州の場合、年間を通じて降水量に恵まれ、購入飼料の利用に過度に依存することなく、良質な牧草による低コスト生産が可能となっていることが挙げられる。 豪州農業資源経済局(ABARE)によると、2008/09年度の乳牛1頭当たりの年間穀物飼料利用量は、TAS州が最も少なく0.7トン程度であるのに対し、VIC州リベリナ地域ではTAS州の約5倍の3.2トンとなっている(豪州全体は1.5〜2.0トン)。 生産費および購入飼料費を、豪州全体、ニュージーランド(NZ)およびTAS州の3者において比較すると、TAS州は、乳固形分1キログラム当たりの生産費について、豪州に比べ平均(*)0.5豪ドル(41円)安、生乳1リットル生産に対する飼料費について、平均(*)4.1豪セント(3円)安と、いずれも安価で推移しており、NZに並ぶほどの、低コスト生産であることがわかる。【平均(*):直近5カ年の平均】 また、酪農家の保有資産が、利益獲得のためにどの程度有効活用されているかを示す財務指標「資産利益・収益率(ROA)=利益/総資産×100」をみると、TAS州はこの5年において、豪州全体を平均1%上回る収益性、効率性を記録している。
3.牧場およびチーズ製造工場を運営するAshgrove Cheese社の歩みタスマニア州には大手乳業メーカーが運営する工場がいくつかあり、さまざまな牛乳・乳製品(飲用牛乳類、チーズ、ホエイパウダー、粉乳など)などを生産している。一方、低コスト生乳生産に取り組みつつ、自ら生乳生産から乳製品製造まで行い、付加価値を高め販売まで手掛ける酪農家も存在する。今回、家族で2牧場を所有し、牧場に隣接したチーズ製造工場を運営、国内向け販売を中心に成長を続けているAshgrove Cheese社を訪ねる機会を得たので紹介する。 (第1号チーズ誕生までの道のり)Ashgrove Cheese社としてチーズを生産するまでには長い歳月がかかった。1980年代中ごろから準備を進め、1993年同社を設立。同社の代表取締役であるジェーン・ベネットさんに話を聞いた。 現在はAshgrove Cheese社の顔となっているジェーンさんであるが、初めて父親であるマイケルさんからチーズ生産への思いを聞いた17才当時、酪農・乳業は先進的な職業ではなく、家業を継ぐことはまったく頭になかった。マイケルさんはジェーンさんを6カ月かけて説得したらしい。その後、農業学校を経て、英国に2年間チーズ留学したジェーンさんは、留学から戻った時点でも、まだ迷いがあったものの、1993年11月29日に記念すべき第1号の「ランカシャー・チーズ」を生産するに至った。
1994年、州内の大手量販店での販売をスタート。先方は、地元で生産・製造されたチーズということで、好意をもって取引を開始してくれた。1995年、州内での販売が好調であったため、他州でも取り扱われるようになり、現在は豪州全土でAshgrove Cheese社のチーズを購入することが可能となっている。 1997年、チーズ熟成室を2倍に拡大し、直売所についても拡張した。2001年には近隣に第2の牧場を購入し、その後、かんがい用水の利用を開始した。その結果、夏季と秋季の生乳生産を補うことができるようになり、「Wild Wasabi Cheese」など、さまざまな種類の小ロット生産を始めた。 2007年、飲用乳生産のための殺菌設備を購入し、2008年、州内向け飲用乳の供給を開始した。また、チーズのパッケージを変更し、売上の倍増を実現した。
(酪農家としての強み) Ashgrove Cheese社の強みは、自家生産した生乳を使用するため、乳牛の飼養管理から最終製品に至るまで一貫した管理体制となっていること、手作業による伝統的な製造方法に基づき、小規模ながらバラエティ豊かな味や食感のチーズを生産していることなどが挙げられる。また、同社の製品は季節により変化する生乳を調整することなく用いるため、製品にもその変化が現れるものの、それを「過剰に手を加えていない、自然な状態であり、小規模経営だからこそできること」として消費者に受け入れられている。このように、牧場運営のみならず、チーズをはじめとする乳製品の製造販売を行うなど、多角的な経営を展開するAshgrove Cheese社は、我が国が目指す農業の6次産業化の一例といえる。
Ashgrove Cheese社は、自社製品に限らず広く牛乳・乳製品についてメディアが取り上げる際、頻繁に登場している。その中で同社は、消費者からの問い合わせに直接対応する酪農家・乳製品生産者として、例えば、工場附設の直売所で酪農乳業に関する情報を発信したり、乳製品製造体験・工場見学のために施設を開放したり、あるいは、学校へ出向いてチーズ、バター製造を実演するといった、酪農乳業全般にわたる積極的な普及活動が紹介されている。 (これから…) Ashgrove Cheese社は現在、既存工場の近くに、チーズの包装および牛乳の充填を行う施設を建設中で、2011年の稼働を目指している。これからも酪農乳業の発展のために、変化を恐れず、あらゆる努力を続けていくと語るジェーンさんは、ABAREや州が開催する会議で‘Dairying to be different’というキーワードをもとに数々の講演を行っている。これには、家族等による小規模経営にとって、酪農乳業を持続するためには、大手メーカーとは異なることに挑戦し続けなければならない、という意味が込められている。 4.おわりに(今後の見通し)〜タスマニア州酪農乳業は、今後も低コスト生産による競争力を維持〜 タスマニア州第1次産業省は同州の酪農乳業にかかる「5カ年計画(2011〜2015年)」を11月19日に公表した。その中で、今後の成長においては、以下のことが前提条件になると掲げている。
今まで、年間を通じて一定の降水量が見込めたTAS州では、生産コストと生乳生産量および乳価との兼ね合いをみながら、購入飼料などの利用を調節することができた。気候変動の影響により地域によっては、降水量の増加と気温の上昇が予測されるが、州政府および連邦政府は大規模なかんがい施設建設に対し、2億2000万豪ドル(178億2000万円)の拠出を決定している。また、世界市場の成長を見越して、ある大手乳業メーカーは、乳製品生産能力拡大のため、1150万豪ドル(9億3150万円)の設備投資を発表している。 「5カ年計画」は、今後の生乳生産量見通しとして「年5%の増加」「2015年には86万キロリットル」とかなり野心的な増加を掲げている。TAS州産は、クリーン・グリーンなイメージとともにグルメな食品として認知されており、「Tasmania」と表示されたチーズなど、一定の評価を得ている。Ashgrove Cheese社のような小規模チーズ生産者が、TAS州酪農乳業界のけん引役となってTAS州産のブランド力および酪農乳業に対する好意的なイメージを高め、一方では、研究機関などが購入飼料の利用を控え、生産コストを最小とできるような牧草管理技術を研究する。そして、酪農家自らがその新しい技術を取り入れ、変化に対応していく。こういった関係者間の連携が、TAS州酪農乳業をより魅力ある、持続可能な産業へと導き、新たな投資を呼び込むことが期待される。 人口50万人、大消費地から離れ、生産資材や乳製品の輸送においても不利なタスマニア州にとって、関係者が一体となって、同州産牛乳・乳製品の付加価値を高め、かつ牧草主体の低コスト生乳生産により収益を高めていくことが、持続可能な酪農乳業という目標達成の唯一の方法であると思われる。 |
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