【要約】青森県下北地方のむつ市で、草地に立脚した、夏山冬里で粗飼料自給率100%の大規模和牛繁殖経営を訪ねた。冷涼な気候で昔から家畜の飼育と畑作との複合経営が盛んな当地は、いち早く水田放牧にも取り組むなど、経営・技術面での創意工夫により、省力化・低コスト化を実現している。今後は家族経営協定のもと、ゆとりある経営の中から女性起業家が生まれ6次産業化による地域発展への夢も実現可能であると思われた。 はじめに和牛枝肉卸売価格は平成20年度に入った頃から低下をはじめ、その後多少の変動はあるものの総じて前年同月比が90%台を続けている。これを詳細にみれば、めす、去勢とも、枝肉規格が上位のものに低迷傾向が顕著に認められる。これは消費者が長びく昨今の不況の中で、牛肉購入金額を抑えざるを得ない現状を如実に反映していると考えられる。そのため量販店などは値ごろ感のある差別化商品を開発し、和牛や国産牛の牛肉販売強化に力を入れつつある。しかし一朝一夕に牛肉需要が好転するとは思えない。 一方、飼料価格は相変らず高止まりを続けており、低迷気味の畜産物価格と相俟って、採算性の悪い経営が全国的に多くなっている。こうした中で、今まで以上にさらなる低コスト和牛生産を確立しようとすれば、自給飼料生産に一層の努力、工夫が必要となろう。 折しも和牛生産における旗手として期待されてきた南九州地方の宮崎県下で22年4月20日以降、口蹄疫が発生し大きな損害を被り、7月27日にようやく全ての家畜の移動制限解除による終息宣言が出された。その影響は甚大で、子牛生産がかつての勢いに戻るのにはかなりの時間がかかりそうである。そのため、和牛肥育もと牛供給地として、東北地方に大きな期待がかかりつつある。 本調査では青森県むつ市で草地に立脚し、夏山冬里で粗飼料自給率100%の大規模和牛繁殖経営を訪ねた。同経営は第13回(平成20年度)全国草地畜産コンクール農林水産大臣賞を受賞しており、それまでの実績によってその地域ですでにモデル的な存在となっており、全国的にも普及性がありそうに思われる。 今回の調査では、調査地選定にあたり、(社)日本草地畜産種子協会 信國卓史会長に格別のご指導、ご協力を頂いた。ここに深謝したい。 古くから牛がいた南部領下北半島むつ市を含む下北半島には非常に古くから牛が存在していたことが知られている。青森県尻屋洞窟の晩期縄文式遺跡からは多数の牛の骨が発見されており、縄文時代からすでに牛がいたことが確かである。時代が下って享徳3年(1454)、足利義政の時代に陸奥田名部の領主蠣崎蔵人信純が奥羽地方を平定しようとしてひそかに蒙古・ダッタンに家臣を派遣して、軍馬のみならず牛をも輸入したという。今日の岩手県の地域でも過去に朝鮮やロシアから牛が輸入されたことがあるようで、これらが在来の牛を基に作出されたのが後代の南部牛である。 初代北海道庁種羊場長の山田喜平氏はその一つの傍証として、今日、東北地方および北海道の一部に方言として広く使用されている牛の呼称「ベコ」という言葉は、ロシア語の「ヴェクBbikb(雄牛)」に由来するものであると「岩手県の産牛」に記している。このように旧南部領の地域には非常に長い牛の歴史があると言える。 むつ市は本州最北端の下北半島に位置し、三方が海に面したなだらかな丘陵地である。年平均気温は9.4℃と冷涼寡照で雨量が少なく、夏季の偏東風(ヤマセ)の影響も大きいため、耕種農業には必ずしも適していない。そのため必然的に畜産が盛んで、平成18年度においては、むつ市の農業産出額の73.7%を占めていた。畜産の中では養鶏がもっとも多く、産出額の45.5%であったが、企業養鶏によるものであった。ついで乳用牛19.9%、豚5.3%で、肉用牛は3.0%であった。しかし和牛の飼養は古くから盛んで、南部牛、後の日本短角種(以下一部で「赤ベコ」ともいう。)の産地としての歴史は長かった。言い換えれば他に有利な作目があまり見出せなかったこととなる。
増頭はヘレフォードに始まり、やがて黒毛和種へそうした中で、昭和30年代、下北地方は政府主導型の開発計画の受け皿となった。32年には砂鉄を原料として鉄鋼を生産する、むつ製鉄(株)が設立された。37年にはてん菜(ビート)栽培の普及、農業の近代化を狙った振興策に伴い、六戸町にフジ製糖(株)が誘致された。しかし、製鉄は44年の閣議で事業化断念が決定し、製糖も砂糖自由化の影響などで42年に工場を閉鎖し撤退となった。 そこで県は水稲、畑作の収量があまり多くない下北地方では畜産、とくに肉用牛を振興すべきと考えた。当時の知事が外国種導入にとくに熱心で、43年頃からヘレフォードがアメリカ、カナダから輸入された。この品種の繁殖素牛などの安定的な供給と牧草を主体とした大衆牛肉を生産するため、大規模牧場が(社)青森県肉用牛開発公社として創設された。県内(むつ市、旧川内町、東通村、横浜町)につくられたこの種の牧場は6カ所に及んだ。筆者は44年10月、青森県畜産試験場職員に案内されて、そこを訪れた時、体型、発育などに斉一性の高くない外国種に戸惑いを覚えた。輸入を急ぐあまり、十分吟味せず、ただ頭数を揃えようとした感があった。 ヘレフォード導入に県がいかに力を入れていたかは、43年度以降48年までの急速な増頭を図でみれば明らかであろう。
しかしまもなく肉質に優れた黒毛和種の飼養が多くなり、特に平成3年の牛肉輸入自由化などによって安価な輸入牛肉と肉質が競合する日本短角種とヘレフォードの飼養は著しく減少した。なお、ビート作付農家の一部に対しては42年に代替品目として他県より黒毛和種が導入され、ビート牛と呼ばれていたが、それがこの地域での黒毛和種の今日の発展に結びついたものと考えられる。 紆余曲折を経ての集団移転下北地方では恵まれた草資源を利用した「夏山冬里」方式による肉用牛繁殖経営が主流である。訪れた鈴木悦雄氏(62歳)はここで妻栄子氏(57歳)、後継者の長男博之氏(35歳)、その妻歩氏(28歳)の家族労働力でチモシー主体の採草地(5.97ヘクタール)、オーチャードグラス主体の放牧地(12.73ヘクタールうち水田放牧2.13ヘクタール)と、兼用地(20.14ヘクタール)、計38.84ヘクタールの自給飼料基盤を活用した和牛繁殖牛飼養(成雌牛65頭、育成牛10頭、子牛52頭、計127頭)を主とし、加工用野菜2.2ヘクタール(かぶ、だいこん、人参等の契約栽培)を副とする複合経営を営んでいる。 この経営は先代が24年に川内町野平地区に入植し開墾した時から始まった。やがて30年には赤ベコ1頭を飼養し、3ヘクタールに大豆、小豆、ナタネなどを栽培していたが、37年開田して翌年5頭の赤ベコを飼養しながら水稲、畑作を行うようになった。この38年に経営者が就農している。4年後、先述のビート牛2頭を導入したのがきっかけになり、45年には広島県から黒毛和種2頭を導入し、8頭飼養をした。この年、水田転作に踏み切り、翌年すべての水田を牧草に転換し黒毛和種の「水田放牧」のこの地方の先駆けとなった。この時、誰の指導もなしに、放牧なら今までやってきたことの延長だと思い、スタートを切ったそうである。この「水田放牧」地は川のそばで石が多いこともあって長年にわたり無更新で利用しているが、自然に新しい種子が落ちているという。 新しい集落は温泉付き集団移転とは云っても現実には高齢などの理由で移転できない家もあって、結局27戸が新しい地区に移り住んだ。袰川を訪れると、むつ湾に沿って防風林が残され、平行してまっすぐな舗装道路がある。この道の山側に同じ形をした農家が整然と入口を並べ、新しい区画整理で誕生した集落がある。同じ間口でまず住宅、その背後に倉庫、そして牛舎がある家が多いのは27戸のうち17戸が和牛飼養農家であるからである。間口の幅で奥に向ってゆっくりとした傾斜地が続く中で、飼養規模に応じて飼料庫、堆肥舎などが作られている。鈴木氏は大規模飼養なので、乾草のベールを入れる飼料庫の後方にもう1つの牛舎があり、子牛育成にあてている。その奥には新しい堆肥舎があり、そこから先は傾斜地を開いて草地が広がっている。道路から直角に草地へと伸びる私道にはところどころ砂利代わりにホタテ貝殻が散かれていた。むつ湾で大規模なホタテ養殖が行われているのである。堆肥を買って砂利が混じっていると文句を言うが、貝殻の破片なら大目に見てもらえる土地柄という。牛のいない家では住宅、倉庫の裏は、ぶどう畑などである。 農家が立ち並ぶ道路の反対側には大きな集会所と野菜集荷場が建てられていた。この地域は温泉が多く、湯が各家庭に配管されている。鈴木氏の家では40℃近い湯が出て、11月になると生活水として使ったり、牛洗いをするという。 あてはずれの痩せ地しかし、良いことばかりではなかった。新しく造成された農地は牧草さえも十分に出来ない痩せ地であった。山林を伐採したため表土が削られていて、長いもやダイコンを栽培するつもりが当て外れとなった。そのため皆が野平で水没を免れた農地、草地を再評価し、そこでの野菜つくり、飼料つくりに勤しむことになった。幸い両地区間には道路が整備されており、車で30分程度で移動できるので、通勤農業するようになった。 筆者が9月末、紅葉しはじめた山道を通った時、放牧場が林の間に点在する道路脇にサルパトロールの小型車が停車していた。下北半島のニホンザルは北限に棲むことで天然記念物である。これが増殖して畑や集落に近づくので、それを防ぐのがモンキードッグであった。犬猿の仲をあおって警察犬としての訓練を受けたこの種の犬は県下に3頭いる。ちょうど今が出動始めらしく、地元のテレビが伝えていた。 もう一つ困ったのが畜舎やパドッグが隣接していて、隣の家の牛が風邪をひくと、すぐにうつるのである。どうやら新しい集落では耕種中心の農業が期待されていたようである。それは鈴木氏が増頭にあわせて牛舎の左右に飼養スペースを広く建て増しをしていることからも理解できる。それでも野平に入って開拓の苦労を共にした仲間同志のことゆえ、我慢したり、互いに気をつけ合いながら生活を続けている。 通勤農業と和牛飼養の拡大集団移転の翌年、だいこん2.5ヘクタール、長いも0.5ヘクタール、和牛繁殖雌牛15頭で袰川から野平へ通勤する形の農業が始まった。牛はすべて夏山(野平)冬里(袰川)方式で飼養された。その後、平成9年には後継者が就農し、翌10年県内の家畜市場が統合され、毎月子牛の市場出荷が可能となったので、和牛飼養を40頭に拡大した。それまで、年3回開催の子牛市場では出荷適期でない子牛も次の開催まで4カ月間待たされるくらいなら少々安くても売ってしまわざるをえなかった。したがってこの市場統合は増頭意欲をさらに刺激した。平成14年には50頭、19年には61頭と畜産が主体で野菜は片手間仕事となった。 この野菜栽培は加工用だいこんの契約栽培であった。この作付は野菜と牧草の輪作体系確立により品質が良く好調に推移していた。しかし、60年頃から加工用だいこんの需要が少なくなり、さらに連作障害によって作目転換も迫られた。そこでかぶ、人参なども栽培することになった。最近では漬物工場の業績が伸びず、野菜生産を縮小していることから、和牛放牧をさらにきめ細かく行うようになった。ただ、契約栽培は漬物工場の要望通りに面積を減らさざるを得ないが、確実な収入源として農家経営の保険のようなものと考えている。
冬期は全頭袰川で舎飼い11月から翌年5月中旬まで、すべての牛は舎飼いされる。11月以前でも、放牧中の母牛についた子牛が4カ月齢になると母子をここで飼養する。また治療が必要なものも少し離れた舎内で飼われる。そのため全頭舎飼い期以前は堆肥舎は一部を堆肥用に、残りを冬期最初に使うロール乾草の収納に使う。このロールを使い切った頃には冬飼いによるふん尿が増えてくるので、オガクズ、稲わら、食べ残しの乾草とともに畜舎内のバーンクリーナーで搬出されてくる。これによって牛床の掃除は実に楽に出来る。しかし牛舎に最初からこの装置があったわけではない。牛が多くなっていくにつれて、ボロ出しが大仕事になった。そこで思い切ってバーンクリーナーをつけたところ、作業効率が向上した。このようにこの経営では、規模に応じた装備を常に考えている。前述の牛舎の増改築しかり、後述の収穫調製用機械のダブル化しかりである。 袰川では放牧を行わないため、チモシー採草地では出穂期に1番刈り、9月頃に2番刈りを行う。1番草はヤマセの関係で天候が悪いとラップ、良いとロールとし、2番草はロールとして利用する。今では十分な肥培管理に努めたので近隣農家より収量が多く10アール当たり約5,000キログラム取れる。なお野平の兼用地ではオーチャードグラス主体の混播牧草の1番刈りが袰川に続いて行われ、ラップやロールとして収穫される。その収量は放牧利用時も合わせると4,000キログラムという。 牛舎内では繁殖雌牛はすべてつなぎで、子牛は子牛室で群飼され、制限哺乳するものだけは子牛が朝夕、母牛のもとへ行く。子牛室ではスターター、水、乾草が給与されている。また離乳した子牛は別棟の育成舎で群飼される。牛舎の二階が乾草置場になっていて、つなぎの成雌牛が向き合う通路に向けて天井の四角い穴から適量の乾草が毎日落され、飼槽に配られる。制限哺乳なので母牛の発情回帰は早く、これが全頭平均、一年一産に貢献している。 舎飼中、子付き母牛には濃厚飼料を毎日2キログラム給与するが、濃厚飼料500gに牧草8kg給与する。一方、子牛は牧草飽食であるため飼料自給率は77%である。しかし粗飼料は100%自給ができるばかりか翌年への持ち越しも多い。 子牛は10カ月齢で市場に出荷されるが、それまでの1日当たり増体重は雌0.91キログラム、去勢1.05キログラムであり、販売時体重はそれぞれ284キログラム、316キログラムである。発育が良好なため子牛市場での販売価格は市場平均よりもかなり高水準である。
低コストを狙う放牧地の施設この経営が成雌牛60頭以上を飼養し、毎年のように子牛を産ませ、同時に作付面積に多少の変化はあるものの加工用野菜を栽培することができたのは、放牧によって節約された労働力を上手に野菜生産にふり向けたからである。また、牛が増頭する度に飼料基盤を充実、拡大できたのは近くの離農跡地、耕作放棄地を上手に集積していったからである。多くの場合、まず「借りてくれないか」で始まり、ついで「引き取ってもらえないか」と言われたという。 放牧の主力地は野平である。そこは37牧区に分かれるが、そのうち28牧区は旧住宅を中心とした1キロメートル余りの範囲内にある。残る9牧区も2〜3キロメートル離れたところにあり、車ですぐに到着できる。これらは地勢によって放牧地、兼用地そしてほんの一部が採草地となっている。兼用地は1番草が収穫されてから全面放牧される。なお野菜畑が牧区とは別に3か所にある。そこは牧区と同じように有刺鉄線で囲われており、万が一脱柵する放牧牛から野菜を守るためである。 牧柵は有刺鉄線で、支柱の多くは足場用単管を自家加工したものである。かつて長いも生産が盛んであった頃に使ったパイプを牧柵がわりに使っていたが、肉厚がうすい上に腐蝕が早く、長持ちしなかった。単管は4メートルもので、以前700〜800円で入手できたので半分に切ると2本の支柱がとれた。それに4段の有刺鉄線をつけるため、穴をあけて針金を通し、鉄線を結わえるからかなりの手間がかかっている。しかし市販の着脱性のよい牧柵なら当時1,500円もしたので、単管加工を選んだという。なお最近では単管も市販の牧柵も、価格は2倍になっている。 このあたりは降雪量が多く、風も強いので冬場、有刺鉄線の切断を避けるために支柱から外す必要があるとき、牧柵の角や雪がふきだまるような所など要所要所落とすポイントを決めている。すべてを落としていると春の修復作業が大仕事になる。有刺鉄線利用は昔からし続けているので、とくに電牧利用は考えたことがない。 放牧中の牧区の入口を入るとフェンスに隣接して水槽がある。空色、黄色、橙色の水槽は、漬物加工用の樽が上部にヒビ割れが入り易くそれが廃棄されるので、それを譲り受け下半分を水飲みに利用している。400リットル程度の水が入るのでトラックに積んだタンクに簡易水道水を入れて巡回しながらフェンス越しに新鮮な水を入れる。牛は草だけを食べているので舎飼い時とちがって水はほとんど汚れない。
きめ細かい草地放牧牛の管理この野平では、5月下旬から10月末までが放牧期間であり、ほとんどすべての育成牛と成雌牛はトラックでの移動が行われる。育成牛なら6頭、成牛なら5頭が1台で運ばれる。野平に着いた牛は放牧地と兼用地に昼夜放牧されていくが、区分けされた牧区に繁殖牛なら妊娠ステージにより、一群5頭程度、なかには2頭とか8頭というものもあるが一度決めたグループにはよほどの事情がない限り、牛を入れ替えたりはしない。新しい牛へのいじめは、角の先端を少しだけ切っているだけなので防げないからである。 一般的に入牧当初は草勢にもよるが45日程度同じ牧区にとどめ、その後は2週間を目途に牧区を変え輪換放牧に移る。転牧後は草生を回復させるため掃除刈りと追肥を行っている。モアで行う掃除刈りではギシギシなどの雑草のほか不食過繁草を刈り払うが、その後牧草が一斉に伸びて良い草地となっていく。 放牧中の個体管理には特に注意しており、放牧中は発情の発見が容易であるので、それを見つけると人工授精する。経営者、後継者が二人とも家畜人工授精師(牛)の資格を取得しているので授精は適期に実施され、平均分娩間隔は12.0カ月である。もっとも牛によっては袰川での舎飼時に妊娠鑑定済みの状況で放牧に出されるものもある。ここでは放牧中に草地で分娩が行われており、子牛が生後4カ月齢で離乳するので、例えば6月早々生れの子牛は9月末に母牛とともに退牧し、袰川でクリープフィーディングされる。 一般的な夏山冬里方式での放牧では、和牛繁殖経営の和牛の多くは公共牧場で放牧され、分娩時に牛舎に連れ戻されるので、子牛が産まれるとその後の世話が大変であるが、袰川地区の肉牛農家は鈴木牧場と同じ方式の飼養方式で、放牧分娩が多い。放牧地での自然分娩では事故はなく、鈴木氏のところでは子牛の下痢や呼吸器病が少ないので、獣医師にかかるようなことはほとんどない。 放牧時、分娩が近い牛群は看視し易いように、人目につき易い野菜畑や避難舎の近くの牧区に入れ、一方、分娩までの期間が長いものほど遠い牧区に入れる。種付けは終っているが子牛がいない雌牛の場合、遠くから頭数を数えるだけではあるが、日に2回は確認している。 放牧牛には頭に縒り戻しがつけられ、うなじの部分に長さ3mのロープがついている。これは林間放牧や障害物の多いところでは無理であるが傾斜があっても草地がなめらかに整地されているので、ロープが何かにからみつくことはない。まれにアブなどを追っているうちに角にターバンのように巻きついたことはあったが牛の捕獲は容易であるし、追込んで捕まえるためのパドックを牧区に設ける必要もない。 野平での採草時、個人所有の収穫調製用機械がトラックで袰川から運ばれてくる。天候の関係で刈取りが明日まで待てない時もあるので、この機械は予備を含め2台用意されている。ここで生産されたラップまたはロール乾草はトラックに10〜14個積んで袰川での舎飼用飼料として運ばれる。 放牧地と兼用地の一部では野菜を1〜3年作付した後に草地造成(更新)を行っている。輪作体系はすでに確立しており、草地と野菜双方に良好な土壌環境が維持されているのは更新時に土壌診断を行い、その結果にもとづいて肥増管理しているからである。適正な草地管理によって自給飼料の生産コストはキログラム当たり8.9円/TDNと非常に安価になっている。
明るい未来に向けて経営者は両親を早く亡くしたので、近隣の経営が二世代で力を合わせて農業に従事している中で、夫婦2人で頑張ってきた。しかし今では後継者夫婦が加わり二世代で働く喜びをかみしめている。家族経営協定をすでに締結して、後継者たちに休みを確保している。経営者と妻の農業従事日数は年間ともに350日、そのうち畜産部門は250日であるが、後継者のそれは300日、その妻は160日、うち畜産部門は250日と100日として、若い世代に十分な自由時間を確保している。家族全員の宿泊旅行はさすがに無理であるが、交代で休みがとれるように心掛けている。 10月に開催された青森県家畜市場では、全国から多数の購売者が訪れ、6割以上が県外へと売られて行った。平均価格も前月比22千円高で好調であったという。 後継者の妻は出荷できないダイコンやかぶを、ぬかにビールを混ぜたり様々な工夫をして、とても美味しい漬物に加工している。そこで、「将来はそれら漬物を販売していくと良い」と筆者が勧めると、「6次産業化できれば良いと思う」と言う。下北地方では女性起業家が農村から何人も生まれているので、ぜひ頑張って欲しい。それも家族経営協定で自由な時間が生かされるからこそである。そのうち、グリーンツーリズムが活発になれば、海の見えるところで温泉につかり手造りの郷土料理を食べようとする人々が集うかもしれない。何事も始めの一歩からである。この経営の信条とも思える身の丈にあわせつつ堅実な発展を望みたい。 成雌牛を100頭にし、年間子牛出荷頭数を80とするこの経営目標は粗飼料にゆとりがあるので実現は可能である。放牧期間も野平より低地にある袰川の採草地の一部を放牧に使えば11月中旬まで延長できそうである。国内の先進地の優れた畜産技術情報をさらに積極的にとり入れ、ますます発展してもらいたいものと思う。
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