調査・報告

裏山林間放牧で実現した低コスト和牛子牛生産

学校法人 二本松学院 学院長 宮崎 昭



1.不況に苦しむ購入飼料依存型経営

 近年、国をあげた肉専用種繁殖雌牛の増頭が順調に進み、平成20年度には18年度と比較して、4万5千8百頭もの大幅な増頭が実現した。ところがその最中に配合飼料価格が急騰し、購入飼料依存型経営が苦境に立たされている。幸い、配合飼料価格は21年度に入り、やや落ち着きを取り戻しつつあるが高値安定は長期化する見通しにある。

 従来、畜産経営の多くが安価な輸入飼料がいつまでも入手できるという前提で規模拡大を続けてきたため、これは特に深刻である。今ほど痛切に飼料自給率の向上が必要とされたことはなかったほどである。

 加えて、20年秋、世界的金融危機に端を発した景気悪化に伴う消費減退などのあおりで、畜産物価格は下落傾向となり、一難去って、また一難と、経営は厳しい状況にあり、特に牛枝肉価格下落が子牛価格の低下を招き、肉専用種繁殖経営の先行きは不安を抱えている。

 しかし、そうした中でも、不況に強い体質の経営が各地に散見できることは心強い。今回報告するものは、平成5年に経営者が代がわりしたのを機に酪農から肉専繁殖に切り替っても、以前から利用してきた裏山林間放牧や草地基盤を上手に活用しているところである。実はこの放牧こそが飼料費にかかるコスト低減対策としてもっとも効果的な飼養技術の一つであり、さらに今日的には獣害対策、景観保全、地域活性化などの多面的効果が認められ、将来、地域農業振興の中核になるとの期待が膨らんでいるからである。なお、この専門調査では調査地選定にあたり、(社)日本草地畜産種子協会 信国卓史会長に格別のご指導、ご協力を頂いた。ここに深謝したい。

2. 南部赤牛どころで頑張る黒毛和種

 調査対象の経営は青森県の奥羽山脈東麓の三戸郡三戸町に立地する。同県の南部は水田とりんごが盛んな津軽と異なって昔から牛と畑が多く、牛は南部赤牛(日本短角種)として有名であった。古くは江戸時代の終り、日米和親条約締結後、黒船への牛肉提供を拒み続けた幕府が外圧に抗いきれなくなった。その時、箱館(今の函館)奉行に対し、「箱館に限り、外国船の要求があった場合は牛肉を提供するよう」命じた。その折、同奉行は南部藩に対して牛50頭を差し出すように求めた。1856年のことであった。そして箱館で飼育しながら必要に応じて牛を黒船に提供したとの歴史的事実がある。

 また、南部赤牛は秋田県小坂で1861年に鉱脈が発見された後、銀を運ぶ目的で動員されている。小坂鉱山は当初、盛岡藩営であったので、多くが岩手県に属す三陸海岸の港に向けての輸送であった。しかし、その後は、鉱山が明治政府に移管され、さらに民間企業である藤田組が払下げを受けるにつけ、険しい山道を避けて青森県野辺地まで運び、北前船に積み込まれることになった。そのせいか、隣町の田子町内には今も赤牛という名字の家が何軒かあるという。

 三戸丘陵には牛の放牧も盛んであったが、馬の放牧が特に多く、第十次農林省統計(昭和8年)を紐解くと、当時全国の馬放牧頭数の約一割に当たる2万4千頭を青森県が占め、この頭数は北海道、岩手県につぐものであった。この地域は北日本太平洋側にしては、ヤマセの影響が少なく、比較的温暖で、水稲、にんにくなどの野菜のほか、葉タバコ、果樹、畜産などを組み合わせた複合経営が盛んである。経営主 野中耕進氏(56歳)はここで妻と先代である父(76歳)の家族労働力で耕種部門として水稲(400アール)とにんにく(40アール)、肉用牛繁殖による畜産部門として自給粗飼料確保のためのサイレージ用トウモロコシ(300アール)、乾草調製用のオーチャードグラス主体の採草地(300アール)、さらに林間野草放牧地(1,000アール)とその中に帯状に造成された人工草地(300アール)を有している。

 現在、黒毛和種繁殖雌牛44頭、育成牛3頭、子牛23頭が飼育されている。これらの牛の中には県畜産共進会でグランドチャンピオンとなったものや、その系統牛もいて、優れた雌牛群を作り上げている。そのため優良血統牛を外部から導入することもあるが、後継牛は原則として血統、育種価のほか連産能力、哺乳能力を基準に自家保留に努めている。繁殖牛部門の所得率は54.5%と高く、借入金の無い経営になっている。農業従事日数を畜産部門に限ってみると、経営主365日、妻90日、先代185日である。

野中夫妻と筆者

3.放牧酪農から肉用牛生産へ

 この農家における畜産経営は昭和初期、軍馬生産に始まったが当時それは国是であった。しかし、戦後、軍馬生産はもとより馬耕も廃止される中で35年以降は乳牛15頭規模の裏山利用の放牧酪農に転換した。平成元年、黒毛和種1頭を導入したのを皮切りに乳牛を減らし、黒毛和種の繁殖牛を徐々に増頭した。特に林間放牧地の利用には乳牛より和牛が優れていると思ったことも一因であった。

 青森県では隣接する岩手県とともに伝統的に日本短角種の放牧が盛んであった。しかし、黒毛和種の子牛価格が高いので急速に黒毛和種の放牧が盛んになり、近隣の肉用牛経営もすでにそうであったので黒毛和種の導入は自然の成り行きであった。

 経営の主体が肉用牛となっていく平成4年に先代から経営移譲された経営主は翌5年に酪農をやめ、繁殖雌牛15頭規模の経営に踏み切った。先代60歳、経営主40歳という早目のバトンタッチは酪農から肉用牛への大きな経営変化を考えてのこととみられる。なお、先代は代替り後も今までずっと肉用牛の世話を続けている。

 経営主はもともと酪農で毎年1産をとっていた。その雌子牛は育成し、主に初任牛で販売してきたし、雄子牛は1カ月齢以内に販売していたので肉用牛繁殖に転換するに当たり飼養管理技術面での不安はなかった。ただし、乳用子牛は下痢で死亡するようなことはなかったが、和子牛は白痢(白色下痢)になったりするので、同じ牛でも違うなと感じたが、2年もすればコツが分かり、経営は順調に展開した。

 その際、三戸畜産農業協同組合の技術者の指導もありがたかったという。特に子牛についてふん便の観察に力を入れるよう指導してくれたことが良い結果につながったようである。現在、経営主はまべち農業協同組合肉牛部会長を務めるほどであり、地域の指導的立場にいて、先進地視察や地元はもとよりほかの家畜市場にも出かけるなど勉強に余念がない。また、青森県農業改良普及会が発行する「あおもり農業」という長い歴史を持つ月刊誌には「畜産の情報」が適切に掲載されていて重宝で、良い学習の助けとなるという。

 経営を全体としてみると、繁忙期を異にする作物を栽培していることや、5月から10月までの間、牛舎に隣接する林間へ放牧することで、労働力の配分を上手に行っている。また、たい肥を飼料畑へ利用することはもとより、にんにく、水稲にも積極的に利用して耕種部門での肥料代低減に努力するなど、畜産と耕種が連携し合って収益性の高い安定的な複合経営を成立させている。

4.裏山での林間野草地放牧

 林間放牧地は牛舎のすぐ近くにある。牛舎に隣接する傾斜地は以前、夏は乳牛の放牧、冬はスキー場として利用していた。しかし、この地域は12月末頃までは雪が少ないこともあって、より有効な活用方法を考えていた。そこで当時、県下で盛んな水田を転用した放牧をコメづくりと兼ねて行うことにした。

 昭和40年代はまだ開田意欲が強く、米価も高かったので、この地域ぐるみの水田整備に乗せて3段の水田を造成した。しかし、その後の減反政策を受け、耕作を中止したため現在は、林間に往復する放牧牛の休息場所(テラス)になっている。このテラスに牛が集まる姿は近くの道路から遠く見渡せるが、日を浴びている時は絵になるのどかな景色である。巧まずに出来た光景であるが、それは経営者の妻がJAまべち女性部部会長として地域の道路景観づくりの花植えに取組み、国土交通省から表彰を受けた実績に華をそえている。そればかりか自宅は立派な屋敷で、それと隣接して牛舎が3つ並ぶことから、その周辺の環境作りにも配慮を惜しまない。経費をかけず庭や牛舎付近に花を植えて訪問者に季節を感じさせて迎えてくれる。

 そこに続く林間放牧地に入ると、そこはカラマツ林である。それを間伐して牛を入れると下草をきれいに食べていくので、太陽光が地表に届くところは草が再生し易くなる。林間に入るとところどころに切株が残り、雪の重みで落ちた枝が方々に散らばっており、また、ところどころで水が浸み出るので長靴を履いていても歩きにくい。しかし、牛はそこに牛道をつくり自由自在に歩きまわっている。中には口径が30センチメートルはあると思われる切株も残っていたが、5年前に170年ぶりに屋敷を改修したときに伐採した跡である。野中家は1830年代からここに居を構えていて、当代が8代目である。先祖の墓を移動させたとき、中に桐箱が入っていて、もみ米やそばの種子が出てきたという話を聞き、この家には農の心が今日まで連綿と伝わっているのだと感じた。

 林間放牧地内で比較的傾斜のゆるいところに、昭和50年頃、草地造成し帯状の人工草地を事業導入で作った。放牧地の草量増加を期待したもので、オーチャードグラスを栽培したが今では一面がシバ植生になっている。

林間放牧の様子
土の露出した部分が牛道

 なお、人工草地を作った頃、4月になって青々と草が芽生え、伸びてきたので乳牛を出したところ鼓脹症で一頭を死なせた。当時、草地に若い草があると春先に牛を入れると硝酸塩中毒になったり、グラステタニーになることが報道されていたのでそれらも心配になった。そこで放牧に出した牛が草を食べ過ぎないようにそれ以降、朝、牛舎内パドックで乾草ロールを十分に食べさせてから牛を放牧に出すことにしたところ、その後は事故はない。

 林間放牧地内には昭和55年頃に牧草種子を播いてみたが、その後は肥培管理をするだけでシバの多い草生となっている。しかし人工草地にくらべるとカラマツの陰など日光が届きにくいところが多く、草量はあまり期待していないようである。

5.昼間は放牧の半年

 この林間放牧地では5月から10月末にかけて繁殖雌牛が毎日放牧に出て、夕方、牛舎に戻す時間制限放牧が続けられている。牛は早朝乾草を給与されて放牧に出て、昼間はここでもっぱら運動をしていて草をあまりあてにすることはないということであった。しかしシバ植生は陸のプランクトンと言われるほど養分生産力が大きいので、現存する草は短くて目立たないが実際はかなりの養分を牛に供給しているはずであり、林間放牧地の草はこの経営に大きく役立っていることであろう。この放牧には子連れ母牛も出されるが、子牛は生後2〜3カ月齢で親から離され、育成牛舎で市場出荷までていねいに仕上げられていく。林間の一隅に池があるが、この水は水田に利用されるだけでなく、放牧牛の水飲み場になっている。そこに集まる習性をとらえて、経営主は個体看視をして発情発見も容易という。夏の暑い時期に害虫が多いとき、牛はこの池につかっているそうである。

 夕方、テラスに集まった牛は急な坂をしっかりした歩様でかけ降りて牛舎に向かう。母牛は年齢の割に若い体つきをしていて、10産は楽にとれるというから、運動が十分であるためと思われる。牛舎に戻った牛は個体ごとの管理が十分に行き渡るように全頭がつなぎ式にけい留され、濃厚飼料約1.5キログラムが毎日給与される。

 放牧中の事故は近年はないとのことだが、かつて牛が山で分娩した時には捜すのに苦労をしたことがある。戻らない牛を求めて林間を歩いても、闇夜の黒牛は容易に見つからなかった。中には雑木の幹の枝分かれしたところに首をはさんで動けなかった牛もいた。そのような経験を生かした山の放牧管理が今うまくいっている。

 採草地は酪農の時代にはもっと広く、オーチャードグラス主体の乾草を生産してきた。しかし、現在は300アールで、1番草と2番草をタイトベール乾草として冬の飼料にしている。今後、徐々に採草地を減らし、その分は公共牧場からの乾草ロールにおきかえるつもりである。

6.舎飼い中も草多給

 11月から4月末にかけては舎飼いとなるが併設のパドックへは毎日出している。その期間の飼料としてデントコーンを黄熟期に刈取って牛舎間などのスペースを利用して作るビニールトレンチサイロに詰めたものを利用する。現在約100アールのトウモロコシ畑を3カ所にもっているが、近隣には高齢のために農地を使って欲しいという人が何人もいるので、将来後継者を得て母牛50頭以上に増頭する際には自給飼料の心配はないという。今年、9月19日からの5連休には、後継者の家族も総出でにぎやかにサイロ詰めをするとのことであった。

 ただし、トウモロコシ畑に熊が出没するのが悩みである。実はサイロ詰め直前の畑に熊が入って、片っ端から実をもいで食べ、芯をまき散らすのである。特に親熊が入ったときなど悲惨で被害は甚大という。そこで今では畑の周囲を電牧で囲んでいるが、沢沿いの熊の通り道付近のワイヤーの位置が少し高くなった場所から数日前に子熊が侵入したというのでその跡を見せてもらった。

 子熊は畑に入って、外からは見通せない内側にもぐり込み、座って、まわりのトウモロコシの実をとって食べたのである。一番美味しい時期を狙い、見つからない位置での宴は、この動物がいかに賢いかを示している。
トウモロコシ畑
熊による被害

 三戸町の東端には馬渕川が北流し、支流は熊原川と呼ばれ、それに沿って集落があり、この経営の立地もその中にある。したがってもともと熊とは縁深い土地柄なのであろう。第12回全国草地畜産コンクールで生産局長賞のこの優れた経営でも悩みがあるのですねというと、大臣賞の石垣市の多宇氏は野生化したクジャクに悩まされているという。畜産をとりまく環境はどこも厳しいのであった。

 舎飼いの時期に入ると、毎朝このサイレージを1頭当たり7〜8キログラム給与し、パドックに出す。そこでは牛を2群に分け競合を少なくした群飼いとするが、それぞれにおいて自家産および公共牧場産の乾草を120キログラム給与する。夕方になると牛舎内で濃厚飼料を1頭当たり1.5キログラム給与する。さらに収穫・販売できないにんにくも飼料の一部として給与することもあり、健康増進に役立っているはずだという。この地域はにんにくの有名な産地なのである。このように粗飼料を多給するように努めているので、粗飼料から供給されるTDNは約70%というが、それに満足せず、もっと高めたいと自覚している。

 繁殖成績については、つなぎ牛舎での朝夕の個体観察に加えて、放牧場の水飲み場での看視など目の届いた管理で発情の発見に力を入れているのに加えて、AIやETにすぐれた技術を身につけた後継者が適期授精しているので平均分娩間隔は12.3カ月、受胎に要する平均種付け回数は1.3回以下と地域でトップクラスである。

7.低コスト牛舎での子牛育成

 牛舎は3棟ある。「牛は外で飼う」を基本と考える経営者は「畜舎は簡単なもので十分」と語るとおり、酪農時代からの乳牛舎に少し手を加えて、それを肉用牛舎として使っている。それに加えてパイプで低コスト牛舎を作ったところ、実際に肉用牛を入れてみると作業スペースが不足したので片側にトタン屋根の作業兼収納スペースを付け足したが、雪が滑り落ちにくく余分な労働が必要となった。そこで2年後、2つ目の低コスト牛舎を作るに当たっては、骨組みは同じパイプであっても屋根の傾斜をゆるく長く改善して両側に作業兼収納スペースを広目にとった。学習が生かされた牛舎であるが3つ目にはより良いものを作ろうと考えている。2つ目の牛舎を建てるに当たり、専門業者に外注したのはトタン屋根と溶接などであったので1棟100万円以下でできたという。牛舎内を歩くと床が白いのは子牛の下痢を防ぐ目的で撒いた石灰であった。3つ目のパイプ牛舎の建設計画は、将来の増頭時に育成用として利用することを考えてのことである。それが実現するとき、林間から間伐材を切り出すので、放牧にはさらに良い草生が期待されるものと思われる。

屋根の傾斜などを工夫した2つ目の低コスト牛舎
 子牛は強制離乳の後、舎飼いで粗飼料と濃厚飼料を加減しながら育成され、県が勧める出荷適期、すなわち生後10カ月齢、体重300キログラム程度を目標にして、市場性が良い時に県家畜市場(七戸)に上場する。最近の実績は去勢雄子牛は平均的に生後310日齢、体重310キログラムとなっている。出荷日齢をもう少し短縮して、同じような体重にしたいと、哺育、育成技術の改善を工夫しつつある。

 青森県における子牛価格については、第一花国の評判が良いことから、全国的にトップクラスの高値がつき、18年度平均で56万円であったが直近にはわが国の不況を反映して41万円に下落した。ただし現在の子牛出荷1頭当たりの生産費は約34万円であり、利益は十分にとれている。しかしこの経営主が目指す方向はなんと生産費を20万円にして後継者に経営移譲しようと、高い目標に向けて創意工夫に余念がない。

 市場は毎月第2週の金曜日に開催されるので、経営者夫妻は牛を積んで出荷する。子牛屋根の傾斜などを工夫した2つ目の低コスト牛舎だけでなく10産以上とった母牛を廃用にするときも同じ市場へ出荷する。市場ではさまざまな情報を交換できるので良い勉強の場になっている。ここ三戸畜産農協ではすでに出荷代行サービスがヘルパーとしてあるが、それを利用したことはない。

 現在、全国的な子牛市場の実情を考えると,子牛を2〜3カ月齢で親から離し、育成用牛舎で比較的多くの濃厚飼料を給与し、運動もパドックに出すのがやまやまであるが、立地条件によってもっと長く子牛が放牧される時代が来て欲しいものである。放牧の良さを評価する子牛市場が現われるならば、経営主が願う子牛生産費大幅削減が早く実現するだろうにと思う一方で28年前、当時は畜産振興事業団と言っていた当機構の依頼で1カ月間にわたりアメリカの各地を歩き、牛肉の生産・流通を調査したことを思い出した。

 アメリカでは、肉用牛繁殖雌牛を飼って子牛を生産する経営を「未利用資源を有効利用する産業」と呼んでいた。これは繁殖雌牛に飼料として食べさせないかぎり、有効に利用されることなく捨てられる土地資源をうまく活用していくことが子牛生産経営の極意であることを示した言葉であった。降雨量が少なく、土壌のやせた原野や林地にまばらに生えた草は放牧された牛が食べなければ誰もそれを刈取って利用しようとしないものである。また、穀物を生産した後に残る茎や葉は養分含量が十分でないので、乳牛や肥育牛の飼料としてはふさわしくないが、繁殖雌牛はこれを食べて子牛生産を続けてくれる。

 アメリカでは肉用種子牛は母牛と一緒に放牧され、増し飼いもされずに出荷適期まで育ち、山でキノコを採るように毎年秋になると秋子が、春になると春子が生産されているのである。子牛生産コストは信じられないほど安いのが普通なのである。

8.たのもしく育つ後継者

 この経営にはすでに後継者が決まっている。長男 野中 寛仁氏(35歳)は現在、青森県産業技術センター畜産研究所和牛改良資源部に技能技師として勤務し、将来後継するつもりである。彼の自宅は十和田市にあって、職場へは1時間かけて通うかたわら、職場から10分の実家に立寄って忙しいときに手伝うという。もちろん休日以外は十分手伝うわけにはいかないが、9月のシルバーウィークには稲刈りとサイロ詰めが待っている。

 彼は農業高校卒業後、仕事についたり、家業を手伝ったりしていたがやがて今の職場に採用された。すでにAI、ET資格を取得し、技術に磨きをかけるとともに、仕事柄、最新の畜産情報にも接することで後継者に必要な知識を増やしている。良き指導者、仲間に恵まれ着実に実力をつけているので、将来、後継したときには単なる経営者にとどまらず、地域の立派な畜産指導者になっていくことであろう。筆者は彼にもう少し今の生活を続けて人格と知識・技術を錬成するようアドバイスをした。

 経営主に出荷子牛のその後の肥育成績や枝肉情報を収集して、自家の雌牛群と相性の良い種雄牛との交配を考えているかときいたところ、後継者が必要に応じて耳標番号でトレースし調べてくれるという。それを知って、この家の畜産技術の伝統継承には刮目すべきものがあると感じた。ただ、家族協定はまだ締結していないので遠からずそれをしたい意向であった。

後継者の寛仁氏(左から3人目)と筆者

9.公共牧場に新たな期待

 三八管内(三戸郡・八戸市)には14の公共牧場がある。採草利用組合が管理する1つを除いた放牧地面積は774ヘクタール、採草放牧地は103ヘクタール、採草地は237ヘクタール(14牧場のうち3牧場の合計)、野草地放牧地は533ヘクタール、林間放牧地は842ヘクタールである。放牧頭数は1,341頭であるが、経営主の牛は入っていない。採草地では1番草、2番草を乾草ロールとして品質に応じた価格で販売しており、経営主も1番草のなかであまり質が良くないものを購入しているが、ここでは基本的に良質のトウモロコシサイレージを自家生産しているからという。県下には肉用牛繁殖雌牛として、黒毛和種がおよそ1万2千頭飼養されている。平成11年〜19年にかけて、黒毛和種の放牧頭数は7,815頭から6,206頭に減少した。三八管内でももとは8割が放牧されていたが、今では4〜5割に減っている。言ってみれば、その分公共牧場に草が余分にあることになる。経営主が公共牧場の乾草への依存度を今後増やす意向はそれを期待したのかもしれない。

 公共牧場によっては放牧場を再整備して、一部に人工草地をつくり、採草地利用組合などが粗飼料を生産することも考えて良い。さらに馬渕川は一級河川であるから、その支流をも含めて、河川敷の畜産的利用を検討してはいかがかと思う。こうした粗飼料生産部門では新しい雇用機会が確実に創出されることであろう。

三八管内の公共牧場


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