(1)農業環境政策とはなにか?―幅広い対象
農業が環境に対して与えている影響を、現状より悪化することを防ぐ、あるいは現状を改善するための政策を、一般的に農業環境政策という。
前者の場合、比較の対象はA「政策を施さなければそうなるであろう環境」とB「現状」であり、後者の場合はA「現状」とB「政策を施した場合の環境」である。いずれの場合も、環境の水準はAよりもBの方が良好でなければならないが、前者のように、現状を維持する行為への支援も農業環境政策に位置づけられる場合がある。例えば、粗放的な放牧を中心とした経営が、収益の改善を求めて畜舎を整備し、集約的な経営に転ずることを防ぐための農業環境政策は、欧州等で広く見られる。
また、このような農業環境政策は、原理的にはAとBの環境上の「絶対値」を大きな問題としない。例えば、Aが「農業が環境に負の影響を与えている状態」でBが「農業が環境に正の影響を与えている状態」でなければならない理由は農業環境政策上はない。Aが「正の状態」でBが「負の状態」でさえなければ(この場合は環境が悪化してしまう)、A、Bともに「正の状態」、あるいはともに「負の状態」でも政策の意味合いは本質的に同じである。
例えばわが国では、農業環境政策はA、Bともに「負の状態」、または、少なくともAは「負の状態」である、あるいはそうでなければならない、ととらえられることが多い。減農薬・減化学肥料がその代表例である。しかしながら、例えば水田が、それがない場合に比べて景観にプラスの影響を与えているとして(これがAの状態)、「はさがけ」を導入してその景観の価値を高める(これがBの状態)ことは、減農薬・減化学肥料と概念的には全く同じである。英国のイングランドでは、放牧を中心とした経営が飼養している家畜の種類を複数にする行為を支援する農業環境政策(環境支払い)がある。複数の家畜にした方が、その糞に依存する生物(蝶や鳥)の種類も増える、ということがその理由である。これもA、Bともに「正の状態」と解釈できる。政策上は、AとBの価値の差が、AをBに誘導するための費用を上回りさえすれば、AとBは(先の例外を除けば)「正負」いずれでもかまわないのである。
(2)だれが費用を負担すべきか?―レファランスレベル概念の重要性
汚染者負担原則に従うとすると、A、Bがともに「負の状態」の場合、農家がその費用を負担する必要がある。Aが「負の状態」でBが「正の状態」の場合、Aから負の状態が解消される水準までは「汚染者」である農家の負担となり、そこからBまでの費用は財政負担となるだろう。
しかしながら、農業環境政策について先進国で最も豊富な経験を有する欧州では、このような汚染者負担原則とは異なる原理で負担者を決定している。農家と社会の責任の境界を表すものとして「レファランスレベル」という概念を導入し、その水準までの環境改善行為については汚染者負担原則、すなわち農家負担を適用し、それを超える水準は社会の責任とし、農家に発生する費用を財政負担する。前者に関する具体的な施策として税金(例えば、農薬や肥料に対する課税)、規制、クロスコンプライアンス(所得支持のための直接支払いの受給条件として環境改善(維持)行為を義務付けるもの)があり、後者には環境支払いがあてられる(図1参照。レファランスレベルをどこに設定するかにより政策の組み合わせがA〜Dのケースのように異なってくる。)。レファランスレベルの水準は、基本的には農業保護の文脈で解釈することが適当であり、例えば農業の環境への「正負」の影響の境界とは関連性がない。
図1 レファランスレベルと政策手法 |
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出典:OECD (2001), Improving the environmental performance
of agriculture: Policy options and
market approaches(筆者訳)
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※レファランスレベルの一例をイメージしたものが図2である(イングランドの事例)。景観や生物多様性保全のために重要な「生垣」を中心とした2メートル以内の範囲の保全を農家の責任とし、それをクロスコンプライアンス条件とする(このための所得減少等は補償されない)。一方で2メートルをこえる範囲の環境保全行為については、それによって発生する費用を環境支払いによって財政で負担する。この場合の「2メートルの範囲内の保全」というクロスコンプライアンス条件が農家と社会の間の責任の境界を示すレファランスレベルとなっている。
図2 レファランスレベルの事例(イメージ図) |
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出典:Natural England(2012), Environmental Stewardship Handbookをもとに筆者作成
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このような枠組みの下、環境支払いは、EU共通農業政策の中で、約5パーセントのシェアを占めている。所得支持のための直接支払いが圧倒的ではあるものの、それを除けば最大の予算項目となっている。また、米国の類似の政策はEQIP(Environmental Quality Incentives Program)であるが、この予算額も近年急増している。
(3)どこに向かっているのか?―農業環境政策の多様化
このように先進国で政策的重みを増大させている農業環境政策は、その手法についても多様化が急速に進んでいる。一つは市場的な手法による環境支払いの補完あるいは代替である。環境支払いは、その支払い金額の設定にあたって過大になる可能性を常に内包している。そのため、支払い金額をオークション方式で決定すべきという考え方があり、豪州においては水利権を環境用に返還してもらうための支払い金額をオークションで決定している。われわれの研究チームも昨年度、滋賀県においてオークション方式による節水を目的とする社会実験を行った。また、代替的な事例としては、水利権市場や温室効果ガス排出権市場がある。いずれも、農家が節水を行う、あるいは温室効果ガスの削減・吸収を行う場合に、ある定められたラインを超えてその行為を行えば、超過分を他者にリースあるいは販売できるというものである。そのラインを環境支払いのレファランスレベルと同一にすれば、環境支払いを代替するものとなる。米国カリフォルニア州の水銀行や、米国の民間による自発的排出権市場であったシカゴ気候取引所などが典型的な事例である。また、わが国においても排出量取引の中にこのような形態で農業部門を参加させる取り組みが開始されている(既に、そのためのクレジット算定手法の整備も進んでいる)。
手法の多様化のもう一つの事例が、集合的行為による環境支払いの実施である。農業環境政策が地理的に隣接する複数の農家によって協調的に実施されれば、環境改善効果が増大する可能性は、欧州を中心に以前から指摘されていた。その具体化のための議論が急速に進んでいる。OECDでは、昨年末から集合的行為による農業環境政策のあり方についての分析を開始した。また、EUでは2013年で終期を迎える共通農業政策の次期対策の検討の中で、環境支払いについて、集合的行為の場合、支払い金額を増額する措置を検討している。わが国においても、滋賀県では集合的な環境支払いを「農村環境支払い」と呼称して平成16年度から実施している。また、上述したわれわれの研究チームで実施したオークションは、集合行為を対象としたものであった。
さらにもう一つの多様化の可能性が、農業環境改善の「結果」に対する支払いである。欧州においては、環境支払いは基本的にはその行為を行政側が指定し、それを実施するための費用を積算し支払い金額とすることが普通である。これに対して、そのような方法では環境改善の結果が必ずしも担保されないという問題がアカデミックを中心に指摘されており、近年はそれに対して行政側が検討を始めている国もある。「結果」が伴わないリスクをだれが負うべきか等についての課題はあるものの、重要な検討事項の一つとなっている。
わが国においては、環境支払い予算(環境保全型農業直接支援対策)は30億円弱にすぎず、またその種類も限定的である。農業保護についての政策議論の根本にあるべき事項は、そもそも保護すべき農業とは何かという観点であると考える。農業環境政策は、環境の観点から保護すべき農業の水準を規定するための重要な政策ツールである。そのような観点に立てば、また、先進諸国の経験も踏まえれば、農業環境政策、特に環境支払い政策の充実強化は喫緊の政策課題であろう。
参考文献
荘林幹太郎、木下幸雄、竹田万里「世界の農業環境政策―先進国の実態と分析枠組みの提案」(農林統計協会、2012年1月)
(プロフィール)
荘林 幹太郎(しょうばやし みきたろう)
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1982年東京大学大学院農学研究科(修士課程)修了後、農林水産省入省。構造改善局等勤務の他、世界銀行、経済協力開発機構(OECD)、滋賀県農政水産部等に出向。2007年より現職。農業の多面的機能に係わる政策や農業環境、資源政策が専門。
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