【要約】
主要乳製品輸出国の一つに数えられるアルゼンチンは、良好な放牧環境や豊富な飼料穀物などを背景に、国際市場で優位性があるとされているが、経済停滞や各種規制などが酪農生産を阻害する要因の一つとなっている。こうした中で、2015年12月には、投資拡大や輸出振興などにより経済立て直しを図るとした新大統領が就任し、酪農政策の見直しが期待されている。また、酪農関係者も、課題の解決に向けた自主的な対応を協議し始めている。
1 はじめに
2015年、世界の生乳生産量は、EUの生乳生産を抑制してきたクオータ制度の廃止や米国、南米の飼料穀物相場安などを要因に増加基調にある。
一方で、世界的な乳製品需要をけん引してきた中国の一時的な輸入減、また、ウクライナ問題を背景としたロシアによるEUや米国などからの農畜産物輸入禁止措置の継続は、拡大してきた乳製品貿易を後退させつつある。このため、2014年前半までひっ迫傾向で推移してきた世界の乳製品需給は緩和に向かい、乳製品国際価格は、2014年後半以降、低迷を続けている。
しかし、乳製品は、特定の国・地域からの供給に限られることから、需給バランスに変化が生じた際は、国際的な乳製品価格は短期間で揺れ動くことになる。このため、輸入国側では、価格や供給先の多角化などの観点から、主要輸出国に比べて価格が安いとされるアルゼンチンやウルグアイといった南米からの乳製品調達を進める動きが出てきている。
特にアルゼンチンは、良好とされる放牧環境や豊富な飼料穀物生産を背景に、豪州に勝る乳製品輸出国として期待されているが、長らく「酪農拡大のポテンシャル(潜在能力)を有する国」にとどまっている。これは、同国の政策のみならず、国内の酪農乳業界が抱える課題によるものであり、その解決に向けた糸口は見いだせないでいた。これらの課題にどう向き合うのか、大統領選挙直前となる2015年10月に首都ブエノスアイレスで行われた酪農需給観測会議(注)などを踏まえ、現状を報告する。
注:同会議は、アルゼンチン酪農の振興を目的に国内酪農生産者、乳業メーカーなどにより設立されたアルゼンチン乳業振興
開発財団(FunPEL)が主催し、2014年3月に行われた第1回会議に次ぐものとなる。
なお、本稿中の為替レートは1米ドル=124円(2015年11月末日TTS相場:123.82円)、1アルゼンチンペソ=13円(1米ドル=9.688アルゼンチンペソ(2015年11月末日Selling相場)で換算)を使用した。
2 酪農の概況
(1)アルゼンチンの位置付け
まず始めに、世界の酪農生産・輸出におけるアルゼンチンの位置付けを紹介する。米国農務省(USDA)の予測によると、2015年の主要13カ国(地域)の生乳生産量は合計4億8736万トン(前年比1%増)と見込まれており(図1)、これは、世界全体の生乳生産量の約8割を占めるとされる。この中で、アルゼンチンの生乳生産量は、第9位の約1千万トンとなる(参考:日本は第13位の735万トン)。
一方で、これら主要生乳生産国は、必ずしも自国内の需給バランスが均衡しておらず、その多くは乳製品輸入国でもある。USDAの予測に基づき、同年の乳製品輸出量を主要4品目(バター、チーズ、脱脂粉乳、全粉乳)の貿易率(生産量に対する輸出量の割合)で見ると、脱脂粉乳や全粉乳は40%と高いものの、バター、チーズはいずれも8%台とかなり低い水準にある。また、これらの取引の95%以上はアルゼンチンを含む上位5カ国(地域)で占められており、供給側が限られている(図2)。
(2)アルゼンチン酪農の概要
アルゼンチンの酪農生産は、通年放牧を主体としており、乳牛の約90%はホルスタイン種である。酪農生産は、ウルグアイとの国境を流れるラプラタ川流域に広がる大草原地帯パンパ地域(コルドバ、サンタフェ、ブエノスアイレス、エントレリオス、ラパンパの5州)に集中し、ここでアルゼンチン全体の95%の生乳が産出される(2015年:聞き取り、図3)。パンパ地域は、土壌が肥沃なことから酪農以外にも大豆やトウモロコシなど穀物や肉牛の主要生産地域でもある。このため、近年では、酪農生産は北部やブエノスアイレス州南部のかんがい地域に拡大しており、生産地域は南北2000キロメートルに及んでいる。
【参考】パンパ地域の総面積は、53万5千平方キロメートルとアルゼンチン国土面積の約2割を
占め、これは日本の国土面積の約1.4倍に相当する。また、同国の農業生産(穀物、
牛肉、酪農など)の約8割を産出する主要農業地帯である。
表1の主要生産指標に示す通り、2014、15年は、乳製品国際価格の下落などから乳牛頭数や生乳生産量はいずれも停滞傾向にあり、また、高インフレを要因とする物価・賃金上昇などから、コスト削減のため補助飼料給与量を削減したことで、1頭当たり乳量は落ち込んでいる。同国の酪農経営は、穀物生産との複合経営が多く、特に世界的に飼料穀物価格が大きく上昇した2012〜13年は、小規模生産者を中心により収益性が高いとされた大豆などへの生産転換が増加した。しかし、2015年は、大豆やトウモロコシ価格の低迷から、「やむなく酪農経営を続けるしかない状態(現地酪農関係者)」となり、酪農場の減少に歯止めがかかっている。
3 生産・輸出動向
(1)生乳・乳製品生産
2014年の生乳生産量は、1頭当たり乳量の低下などから前年比4%減となった。ここ数年の仕向け割合を見ると、約8割が国内向け、約2割が輸出向けとなっている(図4)。
また、生産される乳製品はチーズが主体であり、ヨーロッパからの移民の多い同国の特徴を示している(図5)。ただし、1人当たり乳製品年間消費量は生乳換算で198キログラム(2014年)と多く、ここ10年間の乳製品消費は頭打ちの状態にある。このため、国内市場はすでに成熟状態にあり、いかに輸出向けを増やしていくかが生乳生産拡大の鍵とされている。
コラム1 乳業メーカーの状況 −生産、輸出の主体は大手−
国内大手乳業メーカー30社で構成されるアルゼンチン乳業団体(CIL)は、同国の乳製品生産量の約65%、同輸出量の約90%を占めている(2012年)。特に大手5社は、国内生乳取扱量の4割強を占め、うち、3社は外資との関係を有している。国内には、それ以外に中小乳業メーカー150社からなる中小酪農乳業協会(APYMEL)や約800の独立した乳業メーカーが存在するが、その9割以上が国内向けを中心としたチーズ生産に特化しており、これらは小規模生産が中心となる。このため、CILは、大手乳業メーカーの意向を踏まえ、乳業に関する規制の策定などに関し、政府に対して一定の発言力を持っている。
(2)輸出
2014年の乳製品輸出量は37万トンであり、これを品目別に見ると輸出量全体の約5割を全粉乳が占め、次いでホエイ、チーズ、バターとなる(図6)。全粉乳は、伝統的輸出先国であるベネズエラ、アルジェリア、ブラジルの3カ国向けで全体の7割を占める。特に、政治的結びつきが強いベネズエラとは、同国のチャベス前大統領時代に結んだ「石油と食料の輸出に関する協定(原油と食料との交換取引)」が継続しており、アルゼンチン酪農関係者によると、現在の国際価格を大幅に上回る1トン当たり4000米ドル(49万6千円)台で輸出が行われているとしている。また、隣国のブラジルは、メルコスール(南米南部共同市場)により関税が優遇されており、アルジェリアは、かねてから南米の代表的な輸出市場である。
ここ数年は、世界の乳製品輸入をけん引してきた中国向けの増加も注目される。中国からアルゼンチンには工業製品を積載したコンテナ船による輸出が増加しており、帰路はこの空コンテナを利用して粉乳などを積載できることから、輸送費が低く抑えられることも輸出増の一因となっている。
4 アルゼンチンが抱える課題
(1)酪農生産者と乳業との壁
酪農生産を左右する生産者乳価は、自由経済が導入された1991年以降、乳業メーカーが独自の基準で決定してきたが、政府は2011年、生産者乳価の安定を目的に成分や衛生基準に基づく支払い制度を創設した。これは、政府が毎月決定する乳価を基本に、乳業メーカーが生産量、タンパク質、細菌数などを考慮して最大20%の加算を行うとしたものである。さらに、2013年8月にはこの制度が改正され、加算幅を最大5%に縮小し、生産者乳価の平準化が図られる形となった。ただし、乳業メーカーの一部は、加算幅を狭めることは酪農生産者の自主的な品質改善を阻害するとして、この改正に異議を唱えており、全ての乳業メーカーで実施されているわけではない。
なお、生産者乳価は、2014年の通貨切り下げに対処して大幅な引き上げが行われたが、直近では下落傾向で推移しており、2015年10月は1リットル当たり平均2.7ペソ(35円)である(図7)。
一方、酪農生産者は、加算基準が不透明で、かつ、小売価格に占める乳価割合が低いとして、乳業メーカーに対する不信感を強めており、これが、生乳生産拡大を阻害する一因とされている。立地環境などで生乳出荷先の選択が困難な酪農生産者が多く、また、乳業メーカーからの情報提供が少ないことが、酪農生産者と乳業メーカーとの壁を厚くしている。直近の2015年3月の牛乳1リットル当たり小売価格10.6ペソ(138円)を見ると、生産者乳価の占める割合は3割程度にとどまっている(図8)。
政府や生産者団体は、この壁を崩すためには双方の対話が欠かせないとしており、乳業メーカーに対して情報の提供や意見交換の場の設営を強く求めている。
(2)輸出税と輸出登録制度(ROE)
政府は、通貨危機と債務危機が発生した2002年1月に通貨切り下げを実施し、これによる税収不足をカバーするため農畜産物への輸出税を導入した。これは、通貨切り下げで輸出の恩恵を受ける農畜産業が税収不足を支えるべきとの当時の政府の考えによるものとされる。以後、高インフレによる食料品価格の上昇に対処するため、国内供給優先という名目でたびたび、農畜産物の輸出税率の見直しが行なわれてきた。乳製品に対する輸出税は2002年に設定され、現在は、ラクトース、カゼイン、育児用粉乳、アイスクリームなどを対象に5%の輸出税が課せられている。
乳製品の輸出登録制度(ROE)は、アルゼンチン国内への安定供給を目的に2007年に制度化され、輸出に際して数量、輸出先などの事前登録が求められる。当初、国内供給分として粉乳2万5千トンの在庫を確保した上で、粉乳、LL牛乳およびチーズが登録の対象とされたが、2013年8月の改正で、全ての乳製品が対象となった。この改正は、乳業メーカーに対する政府の統制強化が目的ともみられている。現地乳業メーカーによると、通常2〜3週間程度必要となる事前登録手続きは、国内の乳製品価格上昇時には数カ月も要した結果、輸出先への納入期限が順守できず、取引が打ち切られたケースも出ているという。政府は、輸出を行う乳業メーカーと国内向け乳業メーカーの競争力の格差が拡大しないよう、常に動向を注視しており、国内向け乳業メーカーは、政府の圧力により容易に価格を上げられないことから、公平性を保つべくROEの認可を遅らせることで、業界内のバランスを均衡させるといわれている。
(3)高インフレと為替相場の乖離
2001年に発足した左派政権によるポピュリズム(大衆迎合)政策により、「全ての家庭に牛肉や乳製品を」とのスローガンの下、国内供給が優先されてきたことで、乳製品国際相場の上昇時にも輸出拡大ができず、外貨獲得機会を逸してきた。一方、年率30%もの高インフレに対処するため、乳製品には政府による強い価格抑制が働いている(図9)。
このため、乳業メーカーは、酪農生産者からの乳価引き上げ要求と乳製品の価格抑制に挟まれ、経営環境は厳しい状況にある。
また、乳製品輸出を左右する為替相場を見ると、米ドルに対して急激なペソ安とならないよう実質的に政府が管理しているが、実態は「ブルーレート」といわれる非公式相場が適正水準を示しているとされる(図10)。また、輸出時のレートは公式レートの採用が義務付けられているため、乳業メーカーは、世界的にも低い生産者乳価とされながらも、輸出競争力を発揮できない状況にある。
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コラム2 酪農生産を阻害する大きな要因 −不足する労働力−
アルゼンチンの酪農生産は、その大部分が酪農場や乳牛などを所有し経営管理のみを行う経営者と、契約により乳牛の飼養管理から搾乳、飼料穀物の生産、収穫などを担う「タンベーロ」と呼ばれる労働者によって行われる。これは、家族経営が中心となる日本の酪農生産とは大きく異なり、また、経営者自らが酪農作業を行うとともに、労働力として従業員を雇用するEUなどの経営体系とも異なっている。酪農従事者であるタンベーロは、その多くが親の世代から作業者として酪農に従事しており、農業学校などで教育を受けることなく、そのまま、世襲的に職業として選択する場合が多い。5〜10年程度の契約により酪農場内に設置された住居スペースに家族と共に住み込み、契約期間・条件などに応じて農場と転々とするケースが多いとされている。また、給与は、経営者が受け取る生産者乳価の1〜2割程度が相場とされている。このため、例えば、同国の1農場当たり平均乳量(2014年)で計算(2877リットル×365日×3ペソ/リットル×20%:最大)した場合、年間63万ペソ(819万円)がタンベーロの取り分となる。ただし、1農場当たり平均で3〜4名のタンベーロを雇用しており、タンベーロ1人当たりの年収で見ると200〜270万円程度となる。これは、同国都市部の平均年収(約200万円:2015年10月現地聞き取り)に比べてそん色のない水準となる。しかし、同国の酪農生産を支えるこれらタンベーロは、酪農に対してさまざまな不満を抱いている。
農業生産者を支援するNPO団体であるアルゼンチン地域畜産連盟(AACREA)が国内11州のタンベーロ1184人を対象に行った調査によると、その6割以上が「自分の子供に同じ職業を継がせたくない」とする結果となった。また、タンベーロは魅力的な職業と考えているのはわずか2割程度であり、残り8割は個人の犠牲を伴う職業との回答結果になっている。特に、図に示す通り酪農場の作業環境、自然環境の厳しさを不満材料としている。具体的には、搾乳時以外は屋外での作業時間が長く、雨による土壌のぬかるみ、夏場や冬場の温度変化などを問題としている。
AACREAでは、タンベーロの労働条件が改善されなければ、今後の酪農生産の拡大は困難としており、経営者に対し、タンベーロを単なる労働力として捉えるのではなく、経営に欠かせない存在として認識し、作業環境改善のための積極的な投資や教育の充実などに取り組むべきと訴えている。アルゼンチンの酪農生産の底上げには、専門的な酪農従事者の育成も大きな課題となっている。
5 今後の見通し‐大統領選後に期待されるもの‐
2015年11月に行われたアルゼンチン史上初となる決選投票により、貿易促進と海外などからの投資拡大で同国経済を立て直すとした実業界出身で中道右派のマウリシオ・マクリ氏が新大統領に選出された。高インフレや外貨準備高の減少が続く中で、新政権はこれら課題への対処が迫られており、主要輸出産品である乳製品など農畜産物の生産拡大も欠かせないとされている。
前述の通り、国内の乳製品消費はすでに頭打ちの状態とされ、酪農産業の成長は輸出が担うところが大きい。これは、酪農生産者、乳業メーカーともに一致した見方である。今回の現地調査を通じた関係者の意見をまとめると、新政権に期待するものとして(1)輸出登録制度(ROE)の見直し、(2)実態と大きく乖離する為替相場の是正、(3)自由貿易協定の推進などによる輸出市場の拡大‐の3点を挙げている。
このうち、ROEについては、新政権は撤廃の意向を示しているが、輸出を手掛ける大手乳業メーカー担当者は、手続きが煩雑なだけで輸出に支障はなく、問題視するのは輸出競争力を持たない乳業メーカーとしている。このため、見直しがどの程度の効力を発揮するのかは不明である。
また、為替相場については、今回面談した関係者のいずれもが口をそろえて通貨切り下げは避けられないとしている。新大統領となるマクリ氏もペソ高是正の意向をすでに表明していることから、通貨切り下げは既定路線と認知され、非公式レートとの格差がどの程度縮まるのかに争点が移っている。
一方、貿易促進については、ブラジルやウルグアイなどとのメルコスールによる関税優遇措置とベネズエラおよび米国(チーズに係る関税割当)との自由貿易協定を除き目立った進展がなく、これが乳製品輸出市場の拡大を妨げている一因となっている。現地酪農コンサルタントは、ブラジルとの関係に触れ、人口や経済面でブラジルにのみ込まれてしまうとの危機感が常にあり、これがメルコスール一体として世界各国との貿易交渉ができないアルゼンチン側の事情としている。
今回行われた第2回酪農観測会議では、昨年の第1回会議で数多く報告された「アルゼンチンの酪農生産・輸出は拡大」との明るいテーマは影を潜め、代わって同国の経済情勢や酪農生産の課題、また、大統領選の見通しなどが議論の中心となった。これは、会議を主催する同国の酪農関係者自らが、直面する課題に前向きに取り組む姿勢を示したものといえる。政権が交代しても、長期に及ぶバラマキ型政策が国内に浸透していることで、早急な変革は望めないとの見方もある。しかし、主要輸出品目であるトウモロコシは、すでに輸出税(20%)廃止を見込んで作付面積を拡大させる動きもあるとされる。酪農関係者も、生産の拡大とそれを促す輸出拡大の機会を逃すことなく着実に捉える必要に迫られている。
参考 新大統領が掲げる酪農政策 −輸出環境の改善に期待−
マクリ新大統領が選出される前の2015年10月に、首都ブエノスアイレスで開催された第2回酪農需給観測会議(Dairy Outlook)では、200名を超える国内の酪農関係者を前に、有力3候補者の農業政策担当者から、同国の酪農生産、輸出を取り巻く課題への対処方針が打ち出された。この中で、新大統領に就任するマクリ陣営の政策は表の通りである。
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