話 題 畜産の情報 2018年8月号

明治期以降に開設され、現存する牧場の
歴史的・産業遺産的価値について

札幌市立大学 デザイン学部 講師 大島 卓


明治期以降に開設されたわが国の牧場は、北米や西欧諸国から牧畜技術を導入し、全国各地につくられた経緯がある。さらに日本における酪農風景を根付かせた北海道の町村農場や岩手県の小岩井農場、日本最初期の西洋式官営牧場を出自とする福島県の岩瀬牧場といった開設から現在に至るまで経営が続いている歴史的事例を基に、近代化産業遺産としての歴史的および文化的価値の観点から牧場の歴史を紹介したい。

1 北海道開拓と関連農畜産業施設(図1)



003a

(1)開拓使の事業によって育った牧畜事業の先駆者

1877(明治10)年、札幌農学校二期生として入学した町村金弥は、ウィリアム・ブルックス、エドウィン・ダン(以下「E・ダン」という)からアメリカ式大農経営を学んだ。札幌農学校卒業後、開拓使御用掛に採用され、E・ダンが所属していた真駒内牧牛場に勤務し、畜産を取り入れた農業と機械を駆使する欧米式の経営方法を身につけ、1882(明治15)年に牧牛場主任となる。1886(明治19)年に北海道庁に勤務し、かばの北越殖民会社農場などの設立と経営指導に当たった。北海道庁退職後もりゅう華族組合農場、十勝開墾合資会社清水農場の設立と経営指導に当たった。

町村が真駒内牧牛場の主任をしていた1885(明治18)年、宇都宮仙太郎が牧夫として酪農の実践を積み、1887(明治20)年に渡米してアメリカ式酪農を学んだ。帰国後1902(明治35)年には札幌上白石地区にアメリカ式の畜舎とサイロを持つ農場を開いた。以後アメリカから優秀なホルスタイン種乳牛を輸入して本格的な酪農経営を進め、北海道畜牛研究会を結成してデンマーク式農業の導入を提唱する。

(2)町村農場(北海道江別市)の概要

町村農場は、E・ダンから酪農技術を学んだ町村金弥の息子ひろたかが1917(大正6)年、石狩郡樽川にホルスタイン種乳牛生産を目的に開設した。大正中期ごろまで北海道乳牛の主流はエアシャー種だったが敬貴はホルスタイン種に注目し、積極的に導入を図った。最初の開設地である石狩郡樽川は札幌から遠く一面が泥炭地であったため、開設から10年間にわたって土地改良を進めたが、その後江別市ついしかりに移転している。高度成長期には洋風の農場風景が広がる北海道を代表する農場として、町村農場は認知されるようになっていく。

その一方で農場周辺の宅地化の進展に伴い畜産業特有の臭気という課題が新たに生じ、その解決策として現在地に移転することとなった。1992(平成4)年の江別市篠津地区への移転決定を契機とし、江別市が建物と敷地を取得し、第1牛舎、旧町村邸および製酪室の3棟の建造物を創建当初に近い姿で復元・整備し、1996(平成8)年に旧町村農場(展示施設)として開設した。2007(平成19)年、近代化産業遺産(経済産業省認定)に認定されている(表1、写真1)。

003b

003c

2 小岩井農場(岩手県雫石町)の概要(図2)

004a

日本鉄道会社の東北線工事で、盛岡〜青森間が着工していた1888(明治21)年6月、工事視察で盛岡へ訪れた鉄道局長官の井上勝が岩手山麓下の広大な原野を見て、牧場経営を思い立ったのが始まりと言われている。翌年測量を実施、岩手県南麓の官有未開地3622ヘクタールの払い下げを出願している。1891(明治24)年に小岩井農場は開設され、その後三菱財閥の第三代社長である岩崎久彌が1899(明治32)年、井上から農場を継承し、火山灰土壌の改良と防風・防雪林の造成に力を注ぎ、牧畜産業を主軸に据え農場運営を拡大した。1908(明治41)年には水田経営を全廃し、大規模な飼料作物と牧草の栽培を始め、周囲の農村とは異なった牧畜中心の農場風景が生まれていった。1935(昭和10)年代に入ると農場を中心に見学、散策する人たちが増加しはじめ、1954(昭和29)年ごろから一般向けのバスの運行が始まっている。農場内では増加する観光客対策として1957(昭和32)年5月、種牛部構内に売店を設置している。その後1962(昭和37)年に遊園地の開設計画が立てられ、翌38年に開設している。1991(平成3)年には「遊園地」から「小岩井農場まきば園」として新生オープンしている。

農場内の生産施設は、1903〜1935(明治36〜昭和10)年にかけて建てられた建築物9棟が1996(平成8)年に国登録有形文化財に登録され、現在も半数以上が稼働している(表2、写真2)。

004b

004c

3 岩瀬牧場(福島県かがみいし町)の概要(図3)

005a

1876(明治9)年に行われた東北巡幸を契機として東北地方の原野開拓・産業奨励事業が構想され、その適地として1880(明治13)年に、官有第一種皇宮付属地「宮内省御開墾所」が開設された。1890(明治23)年7月、外務次官岡部ながもと子爵に敷地650ヘクタールと設備、家畜一切が貸下げとなった。その後1907(明治40)年、牧場経営を株式会社に切り替え、 1908(明治41)年にオランダから血統書付きホルスタイン種牛13頭を購入している。ホルスタイン乳牛輸入の際、日本とオランダ両国の友好の印として記念の鐘が贈られており、その鐘が2000(平成12)年、鏡石町文化財に指定されている。

1910(明治43)年当時、朝日新聞記者として活躍していた杉村じんかんが牧場長の永田恒三郎の招待で牧場を訪れ、その情景を元に「牧場の朝」を書いたとされている。1911(明治44)年には敷地および駅舎建設の資金を全額提供し、鏡石駅が開駅する。1939(昭和14)年ごろ、旧事務所棟として現存している事務所棟が新築されている。

1967(昭和42)年に福島交通社長ばりれきが牧場を取得し、新たに有限会社岩瀬牧場を設立する。この時期の岩瀬牧場ではホルスタイン種と褐毛和種を合わせて120頭程の牛が飼育されており、少なくとも新牛舎建設(1987〜1988年建設)までは、現存する旧五号牛舎で畜産が行われていたと推測される。1987(昭和62)年から翌年にかけて、牧場内にふれあい広場、新牛舎、レストラン、売店などが新設され、観光牧場としてオープンし、1989(平成元)年にはちんしょう庭園が整備され、旧牛舎の改修が行われている。その後2000(平成12)年に岩瀬牧場史跡保存研究室を母体とした「牧場の朝・オランダ交流会」が発足して活動を開始している。2015(平成27)年にはとうもろこし貯蔵小屋2棟(須賀川市文化財(1969(昭和44)年))に続き、旧事務所棟とトラクター展示小屋の2件が鏡石町文化財に指定されている(表3、写真3)。

006a

006b

4 今後の展望と課題

明治期以降に開設され現存する牧場施設は、他の炭坑・鉱業関連の産業遺産と同様に、歴史的・空間的特徴を持った近代化産業遺産として認識できる価値を有している。その価値は畜舎建築や構造物の歴史的価値にとどまらず、牧草の品種改良、土壌改良によって作り出されてきた草地空間の技術的価値、現在のホルスタイン種乳牛につながる品種改良の血統・遺伝子的価値を併せ持っている。また近年ではレクリエーションなどの行楽の場として認識されており、粗放的草地空間を基盤とした畜産物の生産機能と観光体験などのレクリエーション機能を併せ持った景観地と位置付けられる。

今後も明治期の殖産興業政策に由来する歴史的特質を有する牧場施設の発見に努め、各牧場の特徴に応じた価値評価を行うことが必要であり、加えて保存・継承していくための手法の確立が求められる。

(プロフィール)

2006年3月に筑波大学芸術専門学群デザイン専攻を卒業。その後、民間設計事務所勤務を経て、2015年3月に筑波大学大学院人間総合科学研究科博士後期課程を修了。博士(デザイン学)を取得。2015年日本学術振興会特別研究員
PD、2016年兵庫県立大学地域創造機構特任助教を経て、2017年4月より札幌市立大学デザイン学部講師。



				

元のページに戻る